大多喜城下町の観光見所情報

千葉県

大多喜城下町の観光見所情報のイメージ

大多喜城と大多喜城下には多くの文化財や、いすみ鉄道と四季折々に咲く花や風景を求めてて多く観光客がおみえになります。特に歴史的建造物をガイド代わりに、観光見所までに道案内、見所に到着しますと文字で観光情報を紹介したします。

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大多喜城

千葉県夷隅郡

大多喜城のイメージ

 大多喜城は、1590年(天正一八年)本多忠勝(十万石)が築城し、本多氏三代(忠勝、忠朝、政朝)で国替えとなり、阿部氏、青山氏 稲垣氏、とかわり、1703年(元禄一六年)松平正久がこの地の移封して以来九代を経て、1871年(明治四年)廃藩、廃城となりました。現在の大多喜城は1974年9月10日城郭様式3層4階の鉄筋コンクリート造)の千葉県立総南博物館として開館しました。  ★展示品 日本刀、甲冑、火縄銃、武家社会の調度品等  ★イベント 甲冑試着体験 ライトアップ ■休館日 毎週月曜日 月曜日が祝日の場合火曜日  入館料 大人200円 中学生以下無料 

大多喜町役場中庁舎大多喜町役場

千葉県夷隅郡

大多喜町役場中庁舎大多喜町役場のイメージ

 2013年9月3日ユネスコアジア太平洋遺産賞を受賞 2010年優秀賞を受賞した横浜市のアカレンガ倉庫に続き2番目の受賞(昭和34年1月   設計者 今井兼次  施工 大成建設㈱)

大井戸

千葉県夷隅郡

大井戸のイメージ

1590年(天正18年)本多忠勝が築城した時に掘られたもので、八角の井桁を組み、そこに八本の柱があって、杉皮ぶきの東屋風の建物であった。梁には八個の滑車とつるべ桶一六が用意されて、水を汲みあげたという。大多喜城には、大小25の井戸があり、その中で二の丸の井戸は、周囲17メートルもあって、言い伝えによると、50人の人夫で二昼夜汲み続けたが湧き水が多く,取止めたと言われています。現存する城内日本最大の井戸である。

薬医門

千葉県夷隅郡

薬医門のイメージ

大多喜城の建造物は、1871年廃藩とともに壊されてしまいましたが、唯一薬医門だけが残され 二の丸跡の大多喜高校の玄関脇に移築復元されました。 

ガス記念館

千葉県夷隅郡

ガス記念館のイメージ

関東天然瓦斯㈱が天然ガスのPR施設として2013年4月1日にオープンした。大多喜町は水溶性天然ガス発祥の地としていわれています。町内には現在の関東天然瓦斯㈱、合同資源産業㈱、大多喜ガス㈱の他にも小規模な工場が操業していました。この施設は関東天然瓦斯㈱が町の新たな観光資源として4月1日にオープン致しました。

大多喜天然ガス碑

千葉県夷隅郡

大多喜天然ガス碑のイメージ

1918年朝日興業㈱を設立し1931年大多喜天然ガス㈱に変更し我が国で初めて天然ガス事業に進出した。創業時は大多喜町周辺で販売事業を行っていたが、茂原方面に拡大し1935年本社を茂原市に移し、1957年社名を関東天然瓦斯㈱に変更した。1969年から沃素の製造、販売を本格化した。

渡辺家住宅

千葉県夷隅郡

渡辺家住宅のイメージ

大多喜藩の御用達を勤めた町の大通りに面した商家で、「穀家」の屋号で知られる。この建物は、棟札から1849年に建てられたことがわかる。道路に面する主屋は2階建ての町家形式をとり、1階は、店舗として利用され、前面に土庇が付く。1階店舗部分の間取りは、6畳、4畳半と台所が設けられた土間からなり、それに続いて居間が角屋風に主屋の背面に突きだしている。居間は中間と書院造の座敷の2室となっている。

釜屋

千葉県夷隅郡

釜屋のイメージ

江戸の見世蔵形式を取り入れた建築様式の商家釜屋は、当初、質屋で金物店に転業し、建設会社を経て現在町が所有しています。1階は土間と居室が2部屋、2階は、蔵座敷が2部屋あり、玄関のくぐり戸や窓の開閉に工夫が凝らされています。また庭先の稲荷様が当時の繁栄を物語っている。

商い資料館

千葉県夷隅郡

商い資料館のイメージ

1階は江戸時代の商家の帳場を再現、2階には「町家の暮らし」、「暮らしの道具」、「職人の道具」、「暮らしと遊び」の資料コーナーを設けています。資料コーナーは、入場無料です。

豊乃鶴酒造

千葉県夷隅郡

豊乃鶴酒造のイメージ

豊乃鶴酒造は1781から88年頃に創業し、明治時代に現住所に移動しました。 現在蔵を構える大多喜町は、緑豊かな自然に囲まれ、伝統が根付いた町です。格子戸と蔵造りの家屋など歴史的な面影を色濃く残し、ドラマの撮影にも度々利用され ..国の登録有形文化財

大屋旅館

千葉県夷隅郡

大屋旅館のイメージ

江戸時代より続く門前宿で、大正期から昭和初期にかけては、旅館業の他に、フォードの車を使用したバス(乗合自動車)事業も営んでいた。1891年(明治24年)に正岡子規が学生時代の頃、房総の旅に出た際に宿泊したとされる。また、つげ義春の『リアリズムの宿』に“理想の宿”として、帳場の佇まいが描かれた。往時の面影を残す宿として、テレビドラマや写真集のロケ地としてしばしば利用されている。

夷隅神社

千葉県夷隅郡

夷隅神社のイメージ

大多喜町では最も格式の高い神社で、縁結び、夫婦和合、安産、子育て等の御利益が特に外大きいと言われています。神社の歴史は古く、1041年再建され、1587年里見氏の武将正木大膳亮が根古谷居城の時再築以後、本多忠勝より最後の城主松平正質まで武運長久の祈願社として崇敬・加護されてきました。境内では本多忠勝が推奨した六斎市が毎月5日、10日、15日、20日。25日30日に8時から12時まで開催されています。

良玄寺本多忠勝墓所

千葉県夷隅郡

良玄寺本多忠勝墓所のイメージ

1595年本多忠勝が建立し、寺領百石を寄進したと言われています。忠勝は1610年63歳で桑名浄土寺に葬られ、忠朝は1615年大坂夏の陣で戦死し大阪の一心寺に葬られ、良玄寺に分骨されました。墓地には本多忠勝,、夫人、次男忠朝の墓があります。本堂には本多忠勝像模写絵が飾られています。

大圓寺(藤)

千葉県夷隅郡

大圓寺(藤)のイメージ

浄土宗で、大永2年(1522)正蓮社天譽存公上人の開祖で、本尊阿弥陀如来立像は、像高1m60cm、檜の寄木造り文禄年間に造像さらたもので、台座より3m余りもある見事なものである。墓地に立つ、石造 阿弥陀女来立像はは大多喜町指定文化財である。墓地内には荘司(野々宮)きくの墓がある。きくは、明治の作家「樋口一葉」の友人で、大多喜に居し、教鞭をとっていた人である。後、大多喜をはなれ、大正11年、53歳で亡くなる。今、その墓石は、塀に近くひっそりと建っている。

妙福寺(シャクナゲ)

千葉県夷隅郡

妙福寺(シャクナゲ)のイメージ

 日蓮宗で、大永2年(1522)日明上人の開祖とされ、本多氏以来の歴代城主の帰依が厚く、多くの文化財が伝わる。中でも大多喜城主本多忠朝の書状が残るが、これは妙福寺の住職が、はるばる忠朝のもとに「そうめん」一折を陣中見舞いとして届けたときの礼状である。「遠路御念入れられ・・・・・快然の至り浅からず候」とあって忠朝の人柄をほうふつされる文章である。また、大多喜城主松平正久が妙福寺に当てた文章もある。徳川家にて若君さまがご誕生にあたり、安産を祈った礼状である。ほかに、室町時代の作と思われる絹本着色の釈迦涅槃図なども伝わっていて、城下町の寺院の貫録を物語っている。

櫻谷寺

千葉県夷隅郡

櫻谷寺のイメージ

天正年間、大多喜城主本多忠勝の母が逝去の際、大嚴寺第2世安誉虎角を招き、万木村(現夷隅町)櫻谷に1寺を建立し菩提を弔ったとある。文禄4年(1595)弟子寂誉至道により現在の地に遷されたが消失し明和5年(1768)実誉円硯の代に再建された。境内にある石造地蔵菩薩立像【延命地蔵尊)は、像高160cm余り、柔和なお顔、衣の流麗な線が見事である。大多喜町指定文化財である

東長寺

千葉県夷隅郡

東長寺のイメージ

寺伝によれば、永正1年(1514)の建立で、開基は大多喜根古屋城主武田信清、開山は大岩和尚であると言われている。以来武田、正木の歴代城主の菩提寺だあった。本多忠勝入城後は長男忠政の室熊姫が深く信仰し、その位牌処となった。熊姫は家康と築山殿との間に生まれた信康と信康の妻となった織田信長の娘との間に生まれ天正18年(1590)に大多喜城に輿入れをした。後2代将軍秀忠の長女千姫を妻とした本多忠刻は、忠政、熊姫の長男として大多喜城で誕生している。同寺には熊姫愛用の金襴袈裟をはじめ、正木時茂の墨書銘のある濁江錦浴衣、本多家愛用の紋所付御膳が伝えられている。本尊は釈迦如来挫像で、脇侍として文殊菩薩、普賢菩薩が並び釈迦三尊となっている。檜の寄木作りで漆に金箔を押し、いずれも室町末の作と推定される。

円照寺

千葉県夷隅郡

円照寺のイメージ

大多喜城主松平氏の菩提寺で、大多喜町田丁円照谷なある。暦応元年(1338)大光禅師が開いたという。松平氏の墓は、野火止めの平林寺にあるが、松平8世の位牌はここに安置されている。ここに伝わる正木大膳のなぎなたは、万木土岐氏との戦いで、49人余りを打ち殺し、血のついたまま奉納したとものという。前方に三日月の池があり、島上に弁財天が祭られている。別名(村正の池」といい、刀匠五郎正宗と弟子村正との秘話が伝えられている。

小田喜根古屋城跡

千葉県夷隅郡

小田喜根古屋城跡のイメージ

 1521年(大永元年)上総君津郡万里谷城主武田信興が、房州館山城主里見氏の上総夷隅の侵略に備えて、次男武田信清に命じて築城したのもです。武田信清は、天文3年(1534)になくなり、二代城主朝信で、天文13年(1544)に里見方の正木大膳亮時茂に滅ばされ、時茂が三代城主となり正木氏が際在城していました。天正15年(1590)に徳川家康の武将である本多忠勝のは入封により、時堯は房州に移りました。本多忠勝は根古屋城が近代戦に添わないので西南1000メートルの地点の要害の山に築城した。

大多喜ハーブガデン

千葉県夷隅郡

大多喜ハーブガデンのイメージ

日本最古のハーブガーデンはハーブの摘み取り体験やハーブ料理、ハーベティ―飲食、ドッグラン、ハーブ教室など各種イベントを開催しています。

沃素事業発祥の祉

千葉県夷隅郡

沃素事業発祥の祉のイメージ

三笠商会が1934年大多喜町に相生工業㈱を設立し、上瀑工場を建設、地下かん水から銅法による沃素の製造を日本で初めて開始した。1965年社名を合同資源産業㈱に変更千葉事業所を八積工場構内に移し、上瀑工場を統合され、上瀑工場は各プラントの巡回を担っている。

大手門址

千葉県夷隅郡

大手門址のイメージ

大多喜城の正門で、幅25m深さ5mの堀に吊り橋がかかっていて、吊り橋は持ち上がる仕掛けとなっていた。
大手門の大手は、もともと追手と書き、敵に最初に遭遇する前面で名前が付けられたと言われている。大手門内には、番所や町奉行所があり、その周りには手代長屋があった。