菊池の山城探訪

熊本県

菊池の山城探訪のイメージ

 熊本県菊池市は、全国の「菊池姓」のルーツとされています。菊池一族は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、宮方(南朝方)として九州内の武家方勢力と争いをくりひろげてきました。そのため、菊池の周囲には館(やかた)や砦(とりで)が多く築かれ、現在は菊池神社となっている本城「守山城」を囲うように配置されています。
 菊池の人々はこれらの山城を江戸時代の頃から「菊池十八外城」と呼び親しんできました。考えられる役割も様々で、一時的に利用された砦なのか、戦を想定した山城なのか、まだはっきりとしたことはわかっていません。今後の更なる研究が期待されます。

※このツアーでは、「菊池十八外城」を含めた肥後北部の特徴的な山城を抜粋してご紹介しています。
※各スポットで獲得するスタンプは、スポットに関連するイラストではないことをご了承ください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「28405」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

菊之城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

菊之城(菊池十八外城)のイメージ

 深川城・菊池古城・雲上城・菊之池城とも呼ばれ、「城之堀」という字名が今も残っています。城跡は菊池川の近くにある水田の中にあり、城跡というより一般的な館の跡と考えた方が妥当ではないかといわれています。初代菊池則隆が菊池川の水運に目をつけて構えたもので、「雲上」は「運上」に由来するものと考えられ、川に関連した館であったとする説があります。
 築かれたのは延久2(1070)年頃と推察され、16代武政が隈府城山に本城を構えたとされる文中2(1373)年まで、300年ほど城館として使われていたようです。

増永城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 菊池十八外城の一つで、西郷氏代々の居城です。別名を西郷城ともいいます。初代則隆の子、政隆が西郷太郎を名乗ってここに館を構え、一帯を治めました。若宮神社付近が城跡と伝わり、その西側に土塁や堀、井戸などの跡も残っています。増永城も城というよりは館に分類されるようです。

正光寺城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 菊池十八外城の一つで、加恵氏の居城です。かつて地元の人々は13基残っていた(塚)墓のうち1基を城跡としていましたが、昭和の土地改良で塚も消失。現在は、出土した五輪塔を一か所に集め、新たに墓所としました。それが現在の「正光寺城跡」となっています。この一帯は菊池川、迫間川に挟まれた水上交通の要所であり、その地の利からこの城が築かれたと考えられています。増永城、打越城、馬渡城、台城と連携し、玉名・山鹿方面から侵入する敵に対する最前線基地の役割を担っていたと考えられています。正光寺城も城というより館に分類されるようです。

打越城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 ここは、西方の敵に備えるための重要な場所であったと考えられています。7代隆定の子の林原与三隆益から始まる林原氏の居城でした。林原氏は、蛇塚、中山、平山氏の祖です。この丘陵の先端には、小野崎氏がいた小野崎もあります。蘇崎地区には「城の本(じょうのもと)」、その近くには城、陣の名残である「土居の内」「鎧迫(よろいざこ)」など、軍事に関する地名が多く残されています。しかし城郭らしき遺構は何もなく、わずかにこの城の西側を走る道路をかつての堀切と見なす事が可能な程度といわれています。
 また、時代は不明ですが、この打越城主の三男・蛇塚三郎を祖とする一族代々の居城が「馬渡城」であったといわれています。菊池川の南岸、通称「蛇塚」という集落内の個人宅の庭先にある蛇塚古墳が城跡と伝えられています。おそらく、古墳の周辺には、豪族の居館などがあり、古墳は物見などに使われていたのではないかと思われます。
※個人宅にあるため見学はご遠慮ください。

古池城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 出田氏代々の居城です。4代菊池経宗の弟経家の子、経信が出田氏の祖とされます。ここは丘の斜面であるため、城跡の把握がなかなか困難です。階段状の地形に下る丘陵地の先端部に直径10m足らずの円型をした高台が残っていますが、城跡の南端がどこなのかは、はっきりとはわかりません。出田地区には、「西屋敷」や「東屋敷」という字名が残っています。

元居城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 茂藤里城(もとりじょう)とも呼ばれ、菊池市重味字茂藤里にあります。集落の東側、菊池川に突き出た丘の端が城跡と伝えられています。南東方向にのびた小山で、茂籐里集落との比高は5~6mにすぎませんが、川岸とは75m近い落差があります。小山の上に楕円形の平坦地がありますが、他にはこれといった遺構はありません。菊池7代隆定の五男、伊倉七郎定直が住んだ城といわれており、ここから少し東に離れたところに「伊倉」という地名を持つ集落があります。

守山城(本城)

熊本県菊池市

守山城(本城)のイメージ

 ここが菊池一族の本拠地となった時代については諸説ありますが、一般的には16代武政(たけまさ)の時代からといわれています。『古城考』という書物によると、菊池神社を中心とする菊池公園丘陵一帯が城跡とされています。戸豊水(とりゅうず)の下から北は迫間川、南は菊池川、西は立石の半田から深川までがその範囲とされ、現在の地名にも、土居の内、北小路、御所小路、院の馬場、月見殿など中世の城郭の跡を示す地名が残っています。また菊池神社の北西側斜面には、底幅9mの空堀が存在しています。

止林城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 止林城は別名を木庭城、または木庭城山古城、城林城 (じょうばやしじょう) とも呼ばれ、下木庭集落から約70mの高さにあります。城跡は上面の平坦な小山になっていて、晴れた日には金峰山の向こうに雲仙岳を眺めることができます。城主の城越前守武顕(じょうえちぜんのかみたけあき)は、15代武光の代に智謀優れた武将として数々の武勲を立て、武光から「皆朱の槍(かいしゅのやり)」を許されたといいます。現在でも下木庭には城、林の姓が多く残ります。
※城までの道は竹藪に覆われ荒れた状態になっています。車同士ですれ違うことはできません。入城する際はご注意ください。

戸崎城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 鹿島氏代々の居城であったといわれています。丘の形が茶臼に似ているところから「茶臼山城」とも呼ばれました。標高101mで、西側の麓には「居屋敷」とよぶ字名も残り、そこからの高さは約50mです。雑木林と畑の起伏に富んだ地形になっており、その中に城跡と伝えられる小山があり、城跡名を刻んだ石碑が建っています。周辺の斜面には、わずかに高さ2mほどの「削りおとし」のあとが残っています。
 この戸崎一帯は古代文化の宝庫ともいえるところです。東南に連なる妙見原には弥生式文化の遺跡や、甲森北から今地区にかけての横穴古墳、赤星で発見された巨石で構築した石棺などがあり、古くから開拓された土地であったことがうかがえます。
※入城は、今村の方からをおすすめしますが、草などが茂っているため、車高が低い車は危険です。城址前に駐車場スペースがあります。

亀尾城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 別名、板井城とも呼ばれ、相良一族がこの地に入り、板井氏を名乗ったところから始まります。合志方面に対する重要拠点であり、天然の地形を利用した城です。天授5(1379)年、「板井原の戦い」では激戦が繰り広げられ、今川了俊により落城しました。
※前川水源に駐車スペースがあります。そこから徒歩で攻略することをおすすめします.。

台城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 別名、水島城といいます。南の麓の集落名が「水島」です。
 城跡には古墳跡と思われる丘があり、古くからの人の痕跡がみられる場所です。城は、特定の城主はおらず、交代制であったと伝わっています。この地域には「城の上」「城の下」「城の前」「堀田」の字名が残っており、丘陵地南側の麓の集落にも「東屋敷」「西屋敷」という地名があります。台城は城というより砦に近いとされています。
※台城址公園に駐車スペースがあります。

神尾城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 神尾城は山城形式のもので別名を水次城といいます。菊池十八外城の一つで、水次氏代々の城とも、村上外記(げき)という人の城郭だったとも伝わっています。水次の集落には土塁を伴った通路が残っていて、地形から見ても、ある程度入念に整備が施された重要な城であったのではないかと考えられています。城の役割としては、台城の援護、あるいは予備としての任務が考えられます。
 周辺には、奈良時代から平安時代前期にかけての寺跡である十連寺跡礎石もあり、一帯には箱式石棺、前方後円墳など多くの遺跡が見られます。
※城への道は集落内を通り狭い道が続きますので、ご注意ください。

葛原城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 城跡の所在地は、菊池市市野瀬字城山で、市野瀬氏代々の居城であったと伝えられています。迫間川の上流部分の川沿いに開けた市野瀬集落の山の稜線に城跡があります。集落から山道を2kmほど登りつめた所に、「城山」と呼ばれる栗山があります。標高259m、集落からの高さ約140mの位置で、「城床」と呼ばれる頂上がわずかに残されたほかは全面開墾されていて、昔の地形はわかりません。遺構と見られるものはありませんが、東側の鞍部が極端にくびれていて、周囲が深い谷に囲まれているので、要塞堅固な城という趣があります。
 一方、東側の対岸に「内城(うちじょう)」と呼ばれる屋根筋があって、地元の人は城跡に関連した「馬小屋跡」と語り継いでいますが、ここも現在は開墾され三段になった栗山となっています。地元の人の話では、「城山」と「内城」両方の開墾のとき、土師質の土器や石羽釜の破片が出土したそうです。寺尾野は13代武重が挙兵したと伝えられることから、軍事拠点として重要な地域だったと考えられます。

鷹取城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

鷹取城(菊池十八外城)のイメージ

 鷹取城は別名を染土(そめつち)城ともいい、龍門・染土の集落から120mほどの急な斜面を登った丘の上にあります。代々原田氏の居城で、初代の城主は原田五郎と伝わっています。小山の上は、ひょうたん型の平らな面になっていて、これを「削り落とし」と呼ばれる加工をした崖がぐるりと囲み、西側の面は落差が4mあります。この高台になった部分を、1m弱の段差の階段状の地形が取り囲んでいます。麓には湧水があります。
 『古城考』という書物によると、初代菊池則隆が菊之城を築城するまで居住したとされ、『菊池郡誌』には、天授、弘和の頃、後征西将軍良成親王が在城したという記事があります。重要な城だったことは間違いないようです。

黄金塚城(菊池十八外城)

熊本県菊池市

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 惣谷氏と平山氏が代々城主を務めていたとされています。北東の麓に岩下という集落を望む高台になっています。この付近の丘陵は複雑に谷が入り組んだ天然の要害です。南東から南にかけては非常に見晴らしが良く、大津方面に直接にらみをきかせるための守りとして築かれたものと思われます。城跡の西側に「平山」集落があります。

木野城(鹿本郡菊鹿町)

熊本県山鹿市

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 この城の現在の位置は菊鹿町木野字正久寺で別名木山城とも呼び、『古城考』には「木山村正教寺廃跡山上にあり、木野弥次郎親政城跡という」と記録が見えます。地元では「木野城」と称し、代々木野氏の居城であったと伝わっています。天授3(1377)年、今川了俊の書状に「きのの城にとりかかり申候」とあり、水島の戦いでは中心となる城であったと思われます。
※スタンプは、木野城入口表示板付近で取得出来ます。

内村城(熊本市北区植木町)

熊本県熊本市

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 熊本市北区植木町内にあり、地元では内空閑氏代々の居城と伝えています。内空閑氏は、南北朝時代に南朝に属して戦っていた服部氏が、同じ南朝方の菊池一族を頼って、吉野山を下って肥後に移住して来たと伝わります。それから100年ほど後、内空閑氏は一時的に、家臣団84名の署名をもって守護の座を追われた23代政隆を援助していたこともあったようです。
 内村城趾の山頂部分は、「城床」と称される長方形の平坦地となっており、鞍部にあたる西側には土塁を付随する堀切が観察されます。北側の見晴らしが良く七城から山鹿にかけてよく見えます。内村集落には「石丸」「乙丸」「五郎丸」「次郎丸」「徳丸」という小名が残っていて、各「丸」はすべて土塁か石垣で区画されています。
※集落内の細い道や竹藪の中を上った先、階段前に駐車スペースが僅かにあります。道幅が狭く危険ですので、車で行く際にはご注意ください。

飛隈城

熊本県菊池市

飛隈城のイメージ

 『合志川芥(こうしせんかい)』によれば、合志氏の居城と伝わります。「1456年8月、合志蔵人佐隆門(こうしくろうどのすけたかかど)真木村より住吉村に移り、飛隈館を建てこれに居る。これを隈屋形という」とあります。
 城跡は、南に合志川の流れを望み、飛隈集落の南西方向500mにあって「城山」という字名が残る丘の南端部に位置しています。空堀と土塁で囲まれた楕円形状の平地と、長方形の平地が東西両側に並んでおり、居館を色濃く残す城跡です。南側斜面からは、道路工事の際(大正時代)に五輪塔が数基出土しました。集落には「城下」の字名が残っており、かつては城跡と集落を結ぶ空堀的な凹道も通じていたといいます。合志川が眼下に流れ鞍岳と阿蘇の山が一望できる城です。
※北住吉にある日吉神社前の旧道路を上ります。道幅が狭く、城址前に僅かに1台駐車できるのみです。ご注意ください。

城村城(山鹿市)

熊本県山鹿市

城村城(山鹿市)のイメージ

 城氏は菊池氏9代の隆泰の弟、隆経が山鹿郡城村に住んだことからはじまりました。蒙古襲来絵詞にある越前殿とはこの隆経のことではないかとされています。菊池家の老臣となり、文明13(1481)年、21代重朝が主催した連歌の会「菊池万句」には朝成、為冬、重峯の3名が名を連ねています。菊池家衰退の後、天正19(1591)年親冬の代になって隈本に移住しました。
※城村城本丸へは、城菅原神社鳥居前に車を停めて、東へ行く坂道を降りていくと、三の丸案内の標識と城村城趾の案内板があります。さらに少し歩くと左手に城村城への案内標識があります。細い道を上っていくと、二の丸があり、堀切を渡った先に本丸があります。ちょっとわかりにくいのでご注意ください。