南北朝・菊池一族歴史街道スタンプラリー

奈良県

※本ツアーは終了しました。

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南北朝・菊池一族歴史街道スタンプラリー!
 福岡県南部の久留米市、八女市、小郡市、うきは市、大刀洗町と熊本県北部の菊池市で、指定スポットを回ってスタンプを集め、応募してください。スタンプの数に応じて、地域の特産品や日本三大合戦の一つに数えられる「筑後川の戦い」の陣図をデザインした特製マグボトルが合計100名様に当たります!
 かつて鎌倉幕府倒幕のあと、朝廷が北朝と南朝の2つに分かれて争った南北朝時代。全国的に北朝側が優勢な中で、唯一九州においてのみ南朝側が優勢に立った時期がありました。征西将軍懐良親王、良成親王と、親王たちを支えた九州南朝武士団のなかでも、ひと際強い輝きを見せる菊池一族が活躍した時代です。
 南朝の歴史や文化、史跡が多く残る九州において、福岡県久留米市、八女市、小郡市、うきは市、大刀洗町と熊本県菊池市は、「南北朝・菊池一族歴史街道推進連絡協議会」を発足し、南北朝時代の歴史や文化を活用した地域の交流、活性化を進めています。
 スポットは、それぞれの自治体を紹介するうえで代表的な場所を2ヶ所ずつ選んでいます。
 スポットを回ることで、楽しみながら南北朝・菊池一族の歴史、文化に親しみ、たくさんの方々に興味を持っていただきたいという思いでこのスタンプラリーを企画しました。
 ぜひ、お楽しみください!

※スタンプラリーへの参加は無料ですが、通信料および移動に必要な経費は参加者負担となります。
※ご利用の端末、ブラウザによってスタンプラリーWEBサイトが正しく作動しない場合があります。
※GPSの精度によって誤差が生じるため、場所によっては地図上で現在位置がずれる可能性があります。GPSの精度による誤差等にて生じた一切の責任は負いかねますのでご了承ください。
※このスタンプラリーでは、GPSによる位置情報を常に取得するため、端末の電池を多く消耗します。充電、予備のバッテリーの携帯など電池に余裕を持たせてからご参加ください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「16887」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

龍護山千光寺

福岡県久留米市

龍護山千光寺のイメージ

 龍護山千光寺は、寺伝によれば、治承4(1180)年、もしくは建久3(1192)年、栄西(のちの千光国師)が建立した白銀山(柳坂山)千光院を起源とする寺院です。地元の有力者、草野太郎永平の庇護を受けて、七堂伽藍や七ヶ寺もの塔頭が整備されました。千光院は当初は天台宗でしたが、栄西が2度目の入宋時に、臨済禅の正伝を受けて帰国すると、千光院を千光寺に改め、わが国で初めて臨済寺院となったとも伝わる寺院です。境内には、懐良親王の御陵墓や、北朝年号を持つ梵鐘など、南北朝の複雑な情勢を物語る遺跡があります。
 境内は度々火災を受けたことにより、応永27(1420)年、後小松天皇から「龍護山」の勅額が下され、山号も龍護山に改められました。その後、寺勢が衰えた時期もありましたが、文亀2(1502)年、草野重永は、周防国富田龍門(文)寺より黙厳為契禅師を招き、曹洞宗寺院として再興しました。
 天正16(1588)年、草野氏は豊臣秀吉によって滅ぼされますが、新領主の小早川(毛利)秀包は、千光寺に仏殿・客殿・食堂を建立して父毛利元就の位牌を安置し、寺領6町を寄進しました。以後、この地を治めた田中家、有馬家からも庇護を受け、筑後国曹洞宗の本寺として、信仰を集めていました。
 現在は、「あじさい寺」として有名で、シーズンには50種・7000株ものあじさいが境内を彩ります。

久留米市立草野歴史資料館

福岡県久留米市

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 草野歴史資料館は、明治44(1911)年に株式会社草野銀行本店として竣工した、木造2階建ての建物です。設計・施工者は不明ですが、和洋折衷の様式で、唐草文を表現した前庭の鉄柵や垣根、門扉などのデザインは当時の特徴を良くとどめています。大正デモクラシーによって盛んとなる洋風建築の先駆けとなる建物であることから、国の登録有形文化財に指定されています。
 戦後は福岡銀行草野支店として営業していましたが、その廃止後、昭和56(1981)年に久留米市が土地、建物を購入し、昭和59(1984)年に久留米市草野歴史資料館として開館しました。
 館内には、中世に筑後国で勢力を誇った草野氏の事績を中心に、江戸時代は豊後街道の在郷町、明治時代以降は小郡町と並ぶ旧三井郡の中心地として、独自で銀行を設立できるほどの財力を持ち、繁栄していた草野町を紹介する資料を展示しています。
 入館料は無料。毎週月曜日は休館となっています。その他、特別展への展示替えなどで臨時閉館する場合もございますので、HPなどでご確認ください。

大杣公園(良成親王御墓)

福岡県八女市

大杣公園(良成親王御墓)のイメージ

 九州の統一を成し遂げた懐良親王は、正平16(1361)年、大宰府に九州征西府を開き当初の目的を果たしたことから、京都へ戻って活動することを計画するとともに、自分の後継者となる人物の派遣を吉野に要請しました。これに応えて派遣されてきたのが懐良親王の甥で後村上天皇第6皇子の良成親王です。
 良成親王は、天授元(1375)年ごろ、征西将軍を継承して、その任につき、菊池武朝とともに、九州探題の今川了俊率いる武家方と激しくせめぎ合いを繰り返しました。天授4(1378)年の託磨原の戦いでは勝利したものの、その後の形勢は悪く、宇土や八代に拠点を移さざるを得ませんでした。元中8(1391)年9月の八代陥落後は、筑後国の矢部(現八女市矢部村)を守っていた忠臣の五條氏が拠城としていた高屋城に拠点を移し、その後大杣を御在所としました。五條家蔵親王最後の書状(1395年)には「御在所矢部大杣」と記されています。
 南北両朝は明徳3(1392)年に合一していますが、良成親王はその後も南朝年号の使用を続けました。南朝の再興を願っていた良成親王ですが、大杣を御在所として後間もなく、30代の若さで亡くなられました。
 良成親王の御墓所は、五條家と矢部の人々により守り続けられ、明治11(1878)年には宮内省(現宮内庁)が後征西将軍宮良成親王墓と治定するに至っています。苦難を重ねた南朝最後の皇子、良成親王の御墓所を皆さんも是非訪れて下さい。

玉水山大円寺と星野村資料館

福岡県八女市

玉水山大円寺と星野村資料館のイメージ

 後醍醐天皇の皇子である懐良親王は九州平定の任を受けて、幼くして征西将軍となって五條頼元らとともに、九州へ派遣されました。延元3(1338)年8月、伊勢の大湊を出航して瀬戸内海に入り、讃岐を経由して忽那島(現松山市)に上陸。ここで九州への渡海の機を窺(うかが)いながら3カ年滞在します。興国3(1342)年5月、薩摩の谷山城(現鹿児島市)に入った親王は、ここでも6か年の滞在を余儀なくされます。目的地の菊池城(現菊池市)に到着したのは、吉野(奈良県)を出て10年目のことでした。
 その後、九州平定を目指して戦いを繰り広げた親王は、正平14(1359)年夏に大保原の戦で、菊池武光等の奪戦もあって勝利を収めます。その2年後、遂に大宰府に征西府を設置しました。以後の12年間が九州南朝方にとって全盛期でした。文中元(1372)年8月、九州探題の今川了俊によって大宰府を追われた親王は、高良山へと撤退して御在所を構えますが、そこも追われて、星野谷へと退き、御在所としました。このころに征西将軍職を良成親王に譲られたとみられています。天授3(1377)年4月には、ここ大円寺に入られており、晩年の6年間は信仰生活を送られました。
 この寺は懐良親王のお位牌を安置する寺であるとともに、星野氏累代の菩提所(ぼだいしょ)です。親王は天授3(1377)年から弘和3(1383)年に薨去(こうきょ)されるまで、大円寺で信仰生活を送られました。襖の下張りから菊と桐の御紋が見つかったことも、親王在住を証する名残りと伝えられます。

大原古戦場碑(東町公園内)

福岡県小郡

大原古戦場碑(東町公園内)のイメージ

 南朝正平14(1359・北朝延文4)年7月、征西将軍宮懐良親王を大将として菊池武光らが大宰府に攻め寄せてくるという報を聞いた少弐頼尚は、それを迎え撃とうと筑後に出陣し、6万騎の兵で、筑後川を前にして味坂庄(小郡市味坂地区から久留米市宮ノ陣町一帯)に陣を取りました。一方の征西府軍は、8千騎の兵で、筑後川を見下ろす高良山などに陣を取りました。
 7月19日、菊池勢がまず筑後川を渡り、少弐勢に向かって押し寄せますが、少弐頼尚はこれとは戦わず、退いて大保原(大原)に陣を取りました。
 その後、にらみ合いが続きますが、8月6日(『太平記』では16日)夜半、菊池勢が少弐の陣へ攻めかかり、決戦が始まりました。
 この戦いで少弐頼尚軍は、少弐忠資などの一族の者23人を含めて3600人以上が討たれて大宰府へ引き揚げ、また征西府軍も1800人以上が討ち死にしたので、それ以上は攻められず引き揚げました。この2年後の正平16(1361)年8月に、懐良親王は念願の大宰府入りを果たします。
 『太平記』は南朝側からの視点で書かれた書物のため、8千の征西府軍が、6万の少弐軍を破るという劇的な描き方をしていますが、実際には互角か、征西府軍の兵力の方が勝っていたという研究もあります。また、この戦いは、自分の本拠地である大宰府を目指して押し寄せてきた征西府軍に対して、少弐軍が必死に抵抗した戦いだったともいえるでしょう。
 なお、大原古戦場碑の立つ小郡市役所横の東町公園周辺には、「前伏」や「高見下」という地名があります。これは大保原合戦の際、少弐軍の警戒兵が厳重に監視していたことが由来であると考えられています。
※軍勢の数は『太平記』による。

福童の将軍藤(大中臣神社内)

福岡県小郡

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 南朝正平14(1359・北朝延文4)年8月6日(『太平記』では16日)夜半、南朝方菊池勢が北朝方少弐の陣へ攻めかかり、大保原合戦の火蓋が切られました。
 その戦いの中で、南朝方の戦況を見た征西将軍宮懐良親王も戦闘に加わりましたが、重傷を負ってしまいました。
 小郡市の郷土史研究家である柳勇氏は、『筑後河北誌』の中でその状況を次のように記しています。
 「両軍互に相討ち相戦い恰(あたか)も大渦の廻るが如く、又熱湯のたぎるが如く激戦死闘し、戦勢幾度が変転して勝敗定まらず、動(やや)もすれば優勢なる少貳勢に押されて、菊池勢の旌旗漸(ようや)く乱れ、少貳軍の金鼓愈々(いよいよ)盛んとなり、武光勢将(まさ)に破れんとした。
 征西将軍懐良親王は遥かに是を見て、戦況の容易ならざるを知り若(も)し武光勢にして破れんか我が事終るとして、自ら陣頭に立ち五千の軍勢を率いて頼尚が本陣に向い突撃した。北軍是を見て『将軍出でたり、将軍出でたり、射落せ』と呼ばはり乍ら(中略)親王に迫る。冬綱が家臣芳賀五郎房則は弓の上手親王を射る。矢誤らず親王の左脇腹に当り鮮血淋漓(りんり)たり、親王尚も進んで戦えば馬又射倒され、敵兵群り集り親王を捉えんとした。此の時敵の一兵進んで親王の左肩を斬る。
 (中略)親王已に三ケ所の重傷を負い、危き事累卵の如く(中略)親王侍衛の武士概ね弊(つか)れ、加うるに朝来の戦闘に疲労甚(いちじる)しく、刀を振う余力無く、然も楯を携えざれば矢を防ぐ事を得ず、皆集って親王を囲み、僅かに鎧の袖を翳(かざ)して敵矢を防ぎ、身を以て敵刃を支え、親王の運命将に風前の燈の如くであった。此の時忽(たちま)ち西方より千余騎の人馬怒涛の如く殺到した、是を見た親王の側近は賊軍の来襲と思い、皆死を覚悟し親王も将に自刃せられんとした。
 懐良親王も已に死を覚悟せられ、竜種将に絶えんとしたとき、豈計らんや此の一群の人馬は、我が左翼隊たる新田一族であり、西島附近の敵陣を攻撃中、遥かに親王軍の旌旗乱れ鼓声衰ゆるを聞き危急と見て、俄に馬首を転して親王の救援に赴き(中略)此の間に親王は漸く血路を開き、福童原に退き傷を包み、新田が一族谷山右馬介義修等に扶(たす)けられて山本の谷山城に退かれた。」
 重傷を負った懐良親王は、小郡市福童にある大中臣神社の加護によって全快したと伝えられています。

正平塔(しょうへいとう)

福岡県うきは市

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 この塔を建立した調衆(しらべしゅう)一門は、黒木助能(すけよし)を始祖とする星野氏、黒木氏、川崎氏の三氏の総称で、なかでも星野氏は耳納山の複数の山城を拠点として吉井周辺を支配していました。
 南北朝の戦乱時には、肥後の菊池氏と征西将軍懐良親王を奉じて南朝に尽くしました。北朝の武家側とは幾度も戦い、多くの生命が失われました。なかでも正平14(1359)年の大原合戦(筑後川の戦い)は、両軍最大の激戦で双方とも多数の戦没者が出ました。これらの戦いで散華した両軍将士の霊を供養するため、この塔が建立されました。
(うきは市指定史跡)

道の駅うきは

福岡県うきは市

道の駅うきはのイメージ

 「道の駅うきは」は、筑後平野を一望できる小高い大野原台地の西北端にあり、その大野原台地は古くから『西見台』と呼ばれ親しまれてきました。
 国の重要文化財『くど造り民家』をモチーフにした木造建築でうきは市の情報ステーションとして観光案内所や物産館などがあります。
 毎朝地元で採れた、たくさんの農産物と手作りのお惣菜やデザートがぞくぞくと集まってきます。どれも、ひとつひとつ丁寧に作られたものばかり。フルーツも一年中通していろんなものを楽しめます。
 「うきは産」の美味しさをぜひ味わいに来てください。
 2022年九州じゃらん、みんなが「好き」な道の駅ランキングで「道の駅うきは」が第1位をいただきました!

菊池武光像(大刀洗公園)

福岡県三井郡

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 正平14(1359)年8月7日大保原(小郡市)で武家方の小弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隈原まで進出しました。この方面で戦っていた小弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れました。
 武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとしました。しかし夜明け前からの激戦で死傷者は小弐方1万8千人、菊池方6千9百人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめました。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まりました。
 「帰来河水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって、紅雪をふく・頼山陽」 「そのかみの血しおの色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川・乃木希典」 古人は、このありさまをこのように詠じています。
 この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられました。
 勇ましい姿のこの銅像はゆかりの菊池渡りの地に昭和12(1937)年建立されたものです。
 なお、馬腹や台石の弾痕は昭和20(1945)年3月の大刀洗飛行場爆撃時の名残。

大堰神社

福岡県三井郡

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この地域の水田を排水する常島堰は、1712年(明徳2年)に困難な工事を経て完成しました。常島堰の恩恵は、この地域の農業振興に欠かせません。大正年の常島堰建設の指導者たちに敬意を表して、草野正六、高山六右衛門、秋山新左衛門、影神門、中垣清衛門、丸林善左衛門がさらに祀られています。

菊池武光公騎馬像(菊池市ふるさと創生市民広場)

熊本県菊池市

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 菊池武光公騎馬像は、平成4(1992)年にこの「菊池市ふるさと創生市民広場」に設置されました。
 菊池一族は、九州の首府である大宰府が菊池に所有する荘園の管理をするため、延久2(1070)年に赴任した藤原(菊池)則隆を初代とし、以降約450年にわたって、菊池を本拠地として肥後一帯を治めた豪族(武士団)です。
 武光は一族の領地であった豊田荘(現在の熊本市城南付近)に生まれ育ち、先代武士(たけひと)の時に北朝方に奪われた菊池一族の本拠地、菊之城(深川館)を奪い返して15代当主になりました。
 正平3(1348)年、九州を治めるべく父後醍醐天皇より征西将軍に任じられ、わずかな手勢と共に九州上陸を果たした懐良親王を菊池に迎え、これをもって九州南朝方の政府である征西府が菊池に置かれることになります。その後武光は親王を支え、九州を南朝の勢力下に置くべく、各地で激しい戦いを重ねていきます。
 そして正平14(1359)年、現在の久留米市高良山の眼下に広がる平野で、日本三大合戦に数えられる「筑後川の戦い(大保原合戦、大原合戦)」の勝利を経て大宰府に征西府を遷し、それからおよそ10年間、九州一円を南朝の支配下におきました。
 その後は更なる勢力拡大を狙って四国伝いで本州へ攻め上ろうとしますがこれに失敗。これを重く見た北朝方は幕府きっての優将とされる今川了俊を派遣。征西府は大宰府を北朝に奪われ高良山まで陣を引きますが、南朝方の勢力を盛り返すことはできませんでした。武光はこの時の戦傷がもとで文中2(1373)年に亡くなったとされています。

亀尾城跡

熊本県菊池市

亀尾城跡のイメージ

 亀尾城は菊池十八外城の一つで別名を板井城といい、初めの頃の城主は板井氏です。この板井氏は、人吉球磨地方に勢力を持った相良氏の一部が玉名に移り、その後更にその一部がこの地に移って板井氏を名乗り、菊池一族の傘下に入ったとされています。
 この城を舞台に繰り広げられた戦いの中でも特筆すべきは、天授5(1379)年の「板井原の戦い」です。九州南朝方は菊池一族17代武朝が後征西将軍良成親王を支え、一方北朝方は九州探題今川了俊とその弟仲秋が大軍勢を率いて征西府攻略に動いていました。武朝が当主になって間もない天授元(1375)年、同じく十八外城の一つである台(うてな)城を舞台に、水島の戦いが繰り広げられました。この時は武朝率いる南朝方の奮戦に加えて北朝方の内部分裂もあって、南朝方が勝利します。しかし、徐々に北朝方に押され、天授5(1379)年板井原の戦いにおいて仲秋軍に亀尾城を奪われました。その後了俊も合流し、2年の歳月をかけて徐々に周囲の外城を攻略し、弘和元(1381)年、ついに守山城は陥落しました。
 それから、100年の時を経た21代重朝の時代、文明13(1481)年に菊池万句が行われました。一族当主の館をはじめとする20ヶ所で500歌ずつ詠んだとされる歌会です。
 その歌会の参加者の中に亀尾城(板井城)主として関部氏の名があり、何らかの事情で城主が変わっていることが分かります。板井城陥落の前後で何かあったのかもしれません。
 現在、亀尾城は城址公園として整備され、その高台からは隈府方向の平野一帯から、北の八方ヶ岳、東の鞍岳までを一望することができます。