淀屋橋、北浜周辺の近代建築を巡るコース

大阪市

淀屋橋、北浜周辺の近代建築を巡るコースのイメージ

スタンプラリーアプリ「Spot Tour」を使って大阪市中央区の北浜、淀屋橋エリアにある近代建築を周遊するコースです。定番のスポットから日常で生活していてはつい見落としてしまうスポットまでコースに詰め込んでみました。スポットによっては建物を飲食店にリメイクしているところもあります。全てを徒歩で巡ろうとすると結構な距離がありますから途中で休憩をはさみながら巡るもよし、レンタルリサイクルで巡るもよし。時が経っても色褪せない近代建築の魅力と町の雰囲気を是非感じてみてください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「62575」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

淀屋橋

大阪府大阪市

淀屋橋のイメージ

 江戸時代初期に活躍した大商人・淀屋によって架けられたと伝えられています。淀屋は江戸前期に活躍した豪商で、木材商や中之島の開発で財を成しました。
 淀屋橋は明治に入り、洪水によって流失し架け替え、さらに市電堺筋線の建設に伴い明治44年に再度架け替えられました。現在の橋は昭和10年(1935)に御堂筋の建設に伴いかけられたコンクリート・アーチ橋で懸賞募集によって決められました。
 平成20年(2008)に国の重要文化財に指定されています。

旧大阪市中央消防署今橋出張所

大阪府大阪市

旧大阪市中央消防署今橋出張所のイメージ

大正14年(1925)に建設された。鉄筋コンクリート造3階建て。1階が消防車の入るガレージであった。2・3階の窓枠は大きなアーチ状で美しく装飾されている。消防署であったことを示す赤い非常灯が、バルコニーの蔭で控えめに残っている。現在は消防署からレストランへとおしゃれな変身を遂げている。店内には消防車が1階に停まっていた、消防署当時の写真がかけられている。交差点を挟んで斜め向かいは大阪倶楽部。

芝川ビル

大阪府大阪市

芝川ビルのイメージ

●花嫁学校として活躍した近代ビル
 芝川ビルは、関東大震災の後「火事、地震に強い建物を」との思いから、芝川又四郎(しばかわまたしろう)が建設した。又四郎は、江戸時代から続く商家の6代目で、不動産業を営んでいた。
 鉄筋コンクリート造、地上4階、地下1階で、昭和2年(1927)、渋谷五郎(しぶやごろう)と本間乙彦(ほんまおとひこ)が設計した。
 竣工当時は自家用として使用するつもりだったが、教育に強い関心をもっていた又四郎は、昭和4年(1929)、ビル内に「芝蘭社(しらんしゃ)家政学園」を開校した。洋裁・和裁・習字・生け花・茶道・割烹など多彩な授業を開講し、自由な構想で教育が行われた。昭和18年(1943)の閉校までに、三千人以上が卒業している。戦後はテナントビルとして使われている。

大阪ガスビルディング

大阪府大阪市

大阪ガスビルディングのイメージ

●御堂筋とともに誕生したガスビル
 巨大な客船を思わせる白亜のビルが御堂筋に面して建つ。設計者は安井武雄(やすいたけお)、昭和8年(1933)に竣工。地上8階建て、地下2階。外壁は1・2階を石材で黒くまとめ、上部は白色のタイル貼り。御堂筋の銀杏並木に映え、「都市建築物の極致」「街路景観にマッチしたオフィスビルの最高峰」と絶賛されている。昭和41年(1966)に安井の後継者・佐野正一(さのしょういち)の設計で北館が増築され、現在も大阪ガスの本社ビルとして使用されている。

●織田作之助と将棋とガスビル食堂
 昭和15年(1940)、『夫婦善哉』で文壇にデビューした織田作之助(おださくのすけ)は将棋好きで、ガスビルにあった学士会倶楽部の将棋会に加わるようになった。大阪文壇の第一人者・藤沢桓夫(ふじさわたけお)に連れられての参加だった。将棋会はハイカラな雰囲気のガスビル食堂で催され、モダンな酒場や本格西洋料理が当時の文化人にもてはやされた。2階のホールでは、名画の試写会やエンタツ・アチャコの漫才などが人気を呼び、文化の拠点となっていた。
●戦災を免れたのは
 昭和16年(1941)12月、太平洋戦争が起こり、屋上ネオン塔、エレベーター、エスカレーター、手摺り、窓枠などは不急不要の設備として金属供出された。昭和19年から昭和24年の間は、白亜の外壁を自社生産のコールタールで真っ黒に迷彩塗装を施すことで空襲を避けた。昭和20年(1945)3月の大阪大空襲では、全館に備えていたシャッターを下ろし、7・8階の一部が焼けただけで難を免れた。

生駒ビルディング

大阪府大阪市

生駒ビルディングのイメージ

●未来に時を刻む
 昭和5年(1930)の完成当初は1階から4階までが陳列室や事務所、5階は畳敷きの大広間で洗面室などがあり、10代の丁稚が住み込んでいたという。デモクラシーの花咲く大正モダンの時代からまもなく、世界恐慌が始まり、やがて戦争へと入っていく時代の10年間、このビルは特に輝きを放った。引っ掻いた模様のスクラッチタイルに大きな焼き物のブロックのテラコッタ。これらは昭和のひと桁、10年間だけにはやった素材で、大きな特徴になっている。

●振り子時計
 ビルの屋上には時計台。5・4・3階は出窓。そして2階の丸窓が入って、全体として振り子時計をイメージしている。設計は宗兵蔵(そうひょうぞう)で、非常に重厚な様式を重んじた設計建築が主だったが、昭和に入り民間の商店ということで、重厚という様式からはずいぶんはずれ、当時としてはかなり遊び心のある設計になっている。大正14年(1925)のパリ万国博覧会でアールデコ様式が花開き、従来の様式的なものから幾何学的なデザインが主流になってきた時代。その影響が大阪のこのビルにも色濃く表れている。

青山・伏見ビル

大阪府大阪市

青山・伏見ビルのイメージ

●蔦(つた)に覆われたレトロビル
 堺筋から伏見町を西へ入ると、甲子園球場から株分けされた蔦で覆われたビルが建っている。このスペイン調のビルは、大正10年(1921)、輸入食料品店などの経営者だった野田源次郎(のだげんじろう)が私邸として大林組に設計・施工を依頼したもので、地上3階地下1階塔屋付き建築物として完成された。
 戦後、GHQにより接収されるという話が持ち上がったが、交渉の末、GHQの将校などの関係者施設としての利用を条件に免れる。昭和26年(1951)に返還。テナントビルとなり、名称を「青山ビル」とした。その後、4・5階を増築。その際、屋上庭園と裏庭の日本庭園が廃止された。
 現在、1階には老舗珈琲店が入り、建築当時のままの大理石の暖炉や唐草彫りの天井レリーフを見ることができる。また、共用部には、現在では再現できない大正時代のイタリア製ステンドグラスやガラス窓、階段にはねじり細工の手すりが見られ、個人住宅として建てられた面影を残している。東隣は伏見ビル。

高麗橋野村ビルディング

大阪府大阪市

高麗橋野村ビルディングのイメージ

安井武雄の設計で昭和2年(1927)に竣工した、当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造のオフィスビル。エントランスにはイスラム風の月と竹の装飾があります。1階は南側にカフェ、北側にイタリア料理店が入り、光がまちにこぼれる夕暮れの表情も美しいビルです。

新井ビル

大阪府大阪市

新井ビルのイメージ

●堺筋がみていた大正モダン
 大正11年(1922)、造幣博物館や神戸地方裁判所などで有名な河合浩蔵(かわいこうぞう)の設計。大日本報徳銀行大阪支店として建てられたが、のち新井証券を経て新井ビルとなる。名建築として小さいながら、堺筋沿いに存在感を示している。
 外観は完全な左右対称で古典様式をベースにしているが、当時の最新のデザインを取り入れるなど、新しい時代感覚を示している。
 戦時中の金属供出でエレベーターを失い、それにまとわりつくように付けられていた階段のみが残る。2階は吹き抜けで、3・4階は廊下が広く、天井も高いつくりになっている。現在は国登録有形文化財に登録されている。

北浜レトロビルディング

大阪府大阪市

北浜レトロビルディングのイメージ

●緑の屋根に赤いレンガの館
 明治45 年(1912)、株仲買商の商館として建設される。戦後は建築資材専門商社「桂隆産業」の本社として使用されていた。北浜を賑わした時は去り、長年眠ったように、放置されていた古ぼけたレンガ造りのこの洋館を「往時の近代建築に再生したい」という想いから、現オーナーが買い取り、平成9年(あ997)、今の姿に変身させた。オーナー自ら設計図を引き、再三英国に渡り、内部装飾などをつくりあげた。現在は国の有形文化財に指定されている。

難波橋

大阪府大阪市

難波橋のイメージ

●勇壮なライオン像
 難波橋の通称は「ライオン橋」。勇壮なライオン彫刻が四隅の親柱の上に配されている。この像は大正4年(1915)に完成した市電事業の一環として難波橋が架けられた際につくられた。中之島の水上公園の一部として設計されたとあって、石橋風の外観、公園のアプローチとなる階段、獅子像、市章である「みをつくし」を組み込んだ欄干、しゃれた橋上灯など、ほかの橋とは一線を画した装飾的な景観をもっている。
 夭折した歌人坂田博義(さかたひろよし)は、この橋に哀愁を感じてこう詠んだ。
 橋づめに 石の獅子立つ 難波橋
    今日かなしまず 吾れわたりゆく
●江戸時代の納涼スポット
 江戸時代、難波橋は天神橋・天満橋とともに「浪花三大橋」と称され、大坂の八百八橋を代表する長大橋であった。当時、大川の川幅は現在よりも広く、難波橋は200メートルを超える木橋で、反りもあり、橋からの眺望は素晴らしかった。周囲の16橋や生駒山などの山々を見晴らすことができ、舟遊びや花見など絶好の行楽地として多くの人で賑わった。
 特に夏場は、氷水、甘酒、ぜんざい、しるこなど、橋のたもとには夕涼み客目当ての茶店が軒を並べ、納涼目的の人々であふれかえっていたという。花火見物にも絶好の場所で、大坂の文人たちの詠んだ俳句にも、何度も難波橋の名前が出てくるほどの人気スポットだった。適塾を開いた緒方洪庵(おがたこうあん)も、難波橋の下に船を並べて歌会を催したという記録が残っている。
●難波橋、激動の変遷
 一時期、難波橋が消失していたことがある。それは明治18年(1885)の大洪水の時である。明治初頭に鉄橋化した甲斐もなく、近辺の橋もすべて大破。数日間、船場から中之島へ渡る手段がなかった。その後、応急処置として難波橋の場所には船を並べて板を渡しただけの簡素な橋がつくられた。それが大正の市電事業により、現在の場所に整備されることになる。なにわ名橋50選の一つ。

大阪市中央公会堂

大阪府大阪市

大阪市中央公会堂のイメージ

栴檀木橋

大阪府大阪市

栴檀木橋のイメージ

 橋が架けられたのは江戸初期。中之島にある蔵屋敷と船場を繋ぐために作られたもので、土佐堀川には多くの橋が架けられていたがその中でも最大の規模を誇っていた。現在の橋は昭和60年(1985)に直線美を生かした旧橋のイメージを大切にして新しく作られた。橋名の由来は橋筋に大きな栴檀(白檀)の木があったためとされているが詳らかではない。なにわ名橋50選の一つ。