北船場周遊 ウオーキングコース

大阪市

北船場周遊 ウオーキングコースのイメージ

大阪経済と金融の中心地。歴史的、文化的に重要な文化財が今なお残る北船場エリア。そして、水都大阪のシンボルでもある中之島の水辺をゆったりと散策するコースです。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「31442」で検索してください。
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大阪証券取引所ビル

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大阪証券取引所ビルのイメージ

●ドームの外観を残したシンボルタワー
大阪屈指のビジネス街・北浜。昭和10年(1935)に建った旧大阪証券ビル市場館は、シンプルなデザインでありながら、列柱が並ぶ楕円筒のエントランス部分が、北浜のランドマークとして存在感を示していた。
しかし、ビルの老朽化が進み、立会場機能が不要となったことから建て替えを余儀なくされ、平成16年(2004)11月、地上24階、塔屋1階、地下2階の近代的なガラス張りの超高層ビルに生まれ変わった。
だが、シンボルであったドームの外観は、北浜の顔として継承。ドーム内部の広間(アトリウム)と外観両袖は、再現保存されている。
伝統の保存と先進的な機能を調和させ、新たに創り出した美しい個性と風格のある都市景観に、平成18年(2006)、大阪まちなみ賞奨励賞が贈られた。

高麗橋

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●高麗橋の始まり
大坂城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、築城と同時に天正11年(1583)から工事が始められた。3年後に完成。慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)を持つ立派な橋となった。橋の名の由来は、古代朝鮮半島(高麗)からの使節を迎えるためにつくられた迎賓館の名前、高麗館(こまのむろつみ)からついたとするもの、秀吉の時代、この橋の付近が朝鮮との通商の中心地で、商人が集っていたことからついたとい うものなどがある。

●高麗橋をめぐる戦い
豊臣と徳川の大坂冬の陣・夏の陣では横堀川に架かる橋をめぐり熾烈な攻防戦があった。特に高麗橋をめぐっての戦いは激しかった。擬宝珠は徳川方の安藤右京之進重長(あんどううきょうのしんしげなが)が戦利品として持ち帰り、安藤家に永く伝えられていた。昭和44年(1969)、故郷の大阪に帰り、大阪城天守閣に保存されている。

●交通の拠点
高麗橋は、江戸時代「公儀橋」として幕府が直接管理。明治に入ると、イギリスより輸入された鉄橋に架け換えられ「くろがね橋」と呼ばれた。西日本の主要道路の距離計算はこの橋を起点として決められた。現在の橋は昭和4年(1929)に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。なにわ名橋50選の一つ。

旧小西家住宅

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● 重厚で豪壮、町屋の長大な表屋造り。
堺筋沿いに、漆黒の木造で国の重要文化財に指定された大阪の貴重な建築がある。明治33年(1900)着工。315坪に間口26mの表屋(店棟)、3階建ての母屋(主住棟)、衣裳蔵、二階蔵、三階蔵が現存する。
工期に3年を要し、栂(つげ)の良材をふんだんに用いた。数寄屋風の趣を有し、付書院の欄間(らんま)の格子など、部屋ごとに斬新な細部の意匠がみられる。明治44年(1911)に堺筋拡張のため、西側間口4間が道路用地に供され、また関東大震災後に母屋3階が危険だとして取り壊された。

● 明治の商家の暮らしを今にみる
間口10間にずらりと格子戸を巡らした1階。2つの土間を通って台所へ。天井は湯気や煙を逃すよう工夫された高い吹き抜け設計。50人以上の食事を賄った大きな「へっつい」(かまど)や井戸は今もある。また、蔵と店の間には運搬用にトロッコのレールが敷かれていた。谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の『春琴抄』に描かれる道修町の薬種商は、小西邸の屋敷、暮らしがモデルといわれていた。

● 進取の精神に富む初代と努力の2代目
安政3年(1856)、薬種業を始めた小西儀助(こにしぎすけ)。大阪で初めて民間で電話を設置した。
2代目・儀助は明治17年(1884)にアサヒビールの前身となる「アサヒ印ビール」を製造する。4年後には「赤門印葡萄酒」を製造販売。この頃の奉公人の中に、のちのサントリー創始者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)がいた。
100年を超える歳月の間、従業員らが力を合わせて、たび重なる空襲と阪神・淡路大震災を乗り越え、現在は合成接着剤のメーカーとしてこの黒壁の館を守っている。

生駒ビルヂング

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●未来に時を刻む
 昭和5年(1930)の完成当初は1階から4階までが陳列室や事務所、5階は畳敷きの大広間で洗面室などがあり、10代の丁稚が住み込んでいたという。デモクラシーの花咲く大正モダンの時代からまもなく、世界恐慌が始まり、やがて戦争へと入っていく時代の10年間、このビルは特に輝きを放った。引っ掻いた模様のスクラッチタイルに大きな焼き物のブロックのテラコッタ。これらは昭和のひと桁、10年間だけにはやった素材で、大きな特徴になっている。

●振り子時計
 ビルの屋上には時計台。5・4・3階は出窓。そして2階の丸窓が入って、全体として振り子時計をイメージしている。設計は宗兵蔵(そうひょうぞう)で、非常に重厚な様式を重んじた設計建築が主だったが、昭和に入り民間の商店ということで、重厚という様式からはずいぶんはずれ、当時としてはかなり遊び心のある設計になっている。大正14年(1925)のパリ万国博覧会でアールデコ様式が花開き、従来の様式的なものから幾何学的なデザインが主流になってきた時代。その影響が大阪のこのビルにも色濃く表れている。

少彦名神社

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●「神農さん」と呼ばれるわけは
大阪・船場の道修町(どしょうまち)にある少彦名神社は、「神農(しんのう)さん」とも呼ばれ、親しまれている。江戸時代、薬種商は、中国医薬の祖とされる神農氏の像や掛軸を床の間に祀っていた。当時、薬といえば長崎から輸入される唐薬種(漢薬)で、薬の真偽、品質の見極めが難しかったからである。その後、和薬種(国産薬)の取扱量が増加。安永9年(1780)、京都の五條天神宮から、わが国の薬の神様、少彦名命(すくなひこなのみこと)の分霊をお迎えし、以前から祀っていた神農氏と合祀した。これが少彦名命と神農氏、2人の神様がいらっしゃる理由である。

●道修町 ― 商売人が文化人
道修町は薬種会社が多く、薬祖講という会をつくり、役員40名で神社の運営にあたってきた。江戸時代からこのあたり一帯は、町の人たちが子弟や丁稚のためにお金を出し合って塾や学校をつくり、商売と勉学を両立させていた。いろいろな知識を吸収しなければ、商売ができなかったのである。大阪薬科大学、大阪大学薬学部もルーツは道修町である。

●神農さんのシンボル「張子の虎」
神社の入り口には、注連柱(しめばしら)があり、その横には金色の虎の像がある。文政5年(1822)、日本でコレラが大流行。道修町薬種商では疫病除薬として虎の頭骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄円」という丸薬を無料で施した。そのとき張子の虎をつくり、丸薬とともに神前で祈願をし、病除祈願のお守りとしてあわせて施与された。以来、「張子の虎」は毎年、11月22・23日に行われる神農祭のシンボルとして名高くなり、大阪郷土玩具の一つに数えられている。戦前は、子どもたちが「おっさん、トラおくれんか」という声が祭りの風物詩となっていたが、戦後は参拝者が無病息災・家内安全を願って買い求め、祭典委員や巫女さんの手により授与されている。神農祭は、大阪の祭りが1月の「十日えびす」で始まり、神農祭で終わることから、「とめの祭り」とも呼ばれている。

伏見ビル・青山ビル

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伏見ビル
●大正時代に建てられたホテル
 北浜付近は、大阪空襲の被害が少なかったことから、戦前からの建築物が今でもその姿を残している。堺筋から伏見町を西に入って一つ目の筋の角に立つ「伏見ビル」もその一つだ。当時のまま、窓の上部に設けられた円形の飾り窓が残る建物は、大正12年(1923)、長田岩次郎(ながたいわじろう)の設計で「澤野ビル」として建設された。コーナーに丸みをもたせている外観が特徴の鉄筋コンクリート造3階建てで、当時としてはめずらしいホテルとして人目を引いた。

●80年の歴史をもつテナントビル
 しかし昭和のはじめ頃、ビルの所有者が替わり、建物はホテルから一新してテナントビルとなった。ビルには、貿易関係や薬品関連の会社などの事務所だけでなく理髪店も入居していた。年を経て、旅行代理店や飲食店、ギャラリーなどが入り、現在も、事務所やフランス料理店が入居するビルとして賑わっている。

●アンティークな鏡と窓枠
 建物1階にあるギャラリーの壁面には、格調高くつくられた大きな鏡がある。この鏡は、昔、ビルで営業していた理髪店で使われていたものだ。また、部屋に光を入れている優雅なアーチ型の窓枠は、建築当時から残っているものである。

青山ビル
●蔦(つた)に覆われたレトロビル
 堺筋から伏見町を西へ入ると、甲子園球場から株分けされた蔦で覆われたビルが建っている。このスペイン調のビルは、大正10年(1921)、輸入食料品店などの経営者だった野田源次郎(のだげんじろう)が私邸として大林組に設計・施工を依頼したもので、地上3階地下1階塔屋付き建築物として完成された。
 戦後、GHQにより接収されるという話が持ち上がったが、交渉の末、GHQの将校などの関係者施設としての利用を条件に免れる。昭和26年(1951)に返還。テナントビルとなり、名称を「青山ビル」とした。その後、4・5階を増築。その際、屋上庭園と裏庭の日本庭園が廃止された。
 現在、1階には老舗珈琲店が入り、建築当時のままの大理石の暖炉や唐草彫りの天井レリーフを見ることができる。また、共用部には、現在では再現できない大正時代のイタリア製ステンドグラスやガラス窓、階段にはねじり細工の手すりが見られ、個人住宅として建てられた面影を残している。東隣は伏見ビル。

愛珠幼稚園

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明治13年(1880)に創立された歴史のある幼稚園。船場北部の連合町会(現在の平野町以北)によって創設され、明治22年(1889)に私立幼稚園になった。明治34年(1901)に現在地に竣工した建物は、現存する日本最古の幼稚園舎です。高塀と大屋根が印象的な御殿風の建築で、遊戯室は2層吹き抜けの大空間、アール・ヌーボー調の照明が輝いている。

適塾

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● 日本で唯一の蘭学塾の遺構 
激しい空襲のあった大阪で、築後200年以上の姿をとどめる町家。適塾は、江戸末期の天保9年(1838)、緒方洪庵(おがたこうあん)が開いた私塾である。1階は、医学者・教育者として活躍した緒方洪庵家族の生活スペース。2階は、蘭学を修めようと勉学に励んだ若者たちの泣き笑いの場であった。

● 適塾生の衣食住 ― 勉強そして勉強!
入塾者は、全国から集まってきた。福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、貧乏な塾生の一人だった。著書『福翁自伝』の中で、天満橋で安い魚を買い求め、机をまな板にしてさばいた、とある。彼らは、純粋に知識を得ることに貪欲だった。朝から晩まで机に向かい、眠るときでさえ机の上だったという。時代が大きく動いた幕末、「開国か、攘夷か」騒然とするさなか、純粋に勉強一筋という姿勢を貫いたのは、洪庵の教育方針だった。

● 緒方洪庵と妻・八重のチームワーク
洪庵は幕末のテレビも電話もない時代に、全国的に知られていた医学者であった。それは種痘を広め、天然痘の撲滅に貢献し、教育者として総合的な人材を育成した功績ゆえだった。適塾の裏手、今橋3丁目には除痘館跡がある。洪庵の功績には、妻・八重(やえ)の存在が大きかったといわれている。17歳で嫁ぎ、全国から集まってくる塾生の世話をしながら、緒方家の主婦として9人の子を育てた。明治20年(1887)に亡くなるまで、多くの塾生から母のように慕われていた。2人の情熱は塾生に受け継がれ、日本の近代化の礎となった。