大阪城周遊ルート

大阪市

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このツアーは大阪城公園の中にある史跡を巡るツアーとなっています。
広い公園内には沢山の重要文化財が現存しています。大阪が誇る大坂城の天守閣はもちろんですが他にも歴史ある建築物や展示物に触れ歴史に思いを馳せてみてください。
もちろん観光目的だけではなく広い城内をウオーキングするのもよし!季節によって見せる顔が異なる自然にも注目です。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「91450」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

大手門

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大手門のイメージ

城の正面入口・大手口にある門のことで、大阪城の正門が「大手門」です。門の真正面にあるのが大手見付石(城中で4番目の巨石)、その左隣に大手二番石があり、これらの石垣の上に長屋形式の櫓が建っています。このような櫓を「多聞櫓」と呼びます。石垣と櫓で囲まれた枡形の空間は「大手口枡形」と呼ばれ、大手門からここへ入ってきた敵兵は、多聞櫓の中から鉄砲による集中攻撃を受ける仕掛けになっています(大手門・多聞櫓はいずれも重要文化財)。

石山本願寺推定地

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石山本願寺推定地のイメージ

●現在の大阪へと続く始まりの場所
「大坂」という地名が歴史上初めて姿を現すの は、明応7年(1498)に本願寺第8世・蓮如(れんにょ)の書いた『御文(おふみ)』の中でした。
その蓮如が明応5年(1496)、摂津国に築いたのが大坂御坊であり、天文元年(1532)に京都の山科本願寺が炎上した際に本山の機能を大坂御坊に移転し、「石山本願寺」と呼ばれるようになりました。
第11世・顕如(けんにょ)のときは元亀元年(1570)から11年間、織田信長(おだのぶなが)との苛烈な石山合戦を経験。最終的には講和が成り、顕如が石山本願寺を退去することで決着をみた。その後、石山本願寺は焼失している。焼失後にその立地条件のよさに目をつけた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂城を築き、そして現在に至るまでの大阪の繁栄へと続いていくのである。
「推定地」とされているのは、秀吉による大坂城建設、さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城建設による大規模な工事により、石山本願寺の正確な場所が不明だからである。

豊国神社

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●やはり秀吉は大阪城が似合う
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)、秀頼(ひでより)、秀長(ひでなが)を祀る神社。京都の豊國神社の別社として、明治12年(1879)に中之島に創建されたのが始まりです。昭和36年(1961)には、現在の大阪城公園内に移動。その際、境内の広さも約3倍になったという。かつては境内に、明治時代に建立された豊臣秀吉銅像が大阪城内より移されていましたが、戦時中に供出されて以来失われていました。そのため平成19年(2007)4月に、彫刻家・中村晋也(なかむらしんや)氏の手による新像が完成。像は小田原城攻めのときの豊臣秀吉をイメージしたもの。秀吉が境内に雄々しく立つ様子は、新たな観光の名所となっています。
 境内には、かつて中之島の藩蔵屋敷にあった白玉神社や豪商・淀屋の鎮守の杜であった若永神社も祀られています。
 秀石庭は、昭和47年(1972)に奉納された庭園。秀吉の「秀」と石山の「石」から命名された。 千成瓢箪の形を地割模様とし、巨石を組み合わせている。

桜の門

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城の中心部・本丸へ入る正面入口が「桜門」で、門の両側には竜石(右)と虎石(左)があります。秀吉の時代にこの付近に桜並木が並ぶ門があったため「桜門」と呼ばれました。門を入ると、桜門枡形(ますがた)があります。ここにあった多聞櫓(たもんやぐら)は幕末に焼失しました。この枡形の中で一番大きな石が「蛸石(たこいし)」で、城内最大の巨石です。備前岡山の城主だった池田忠雄によって搬入されました。

旧陸軍第四師団司令部庁舎

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●役目を終えた歴史の語り部
 建設されたのは、昭和6年(1931)。昭和35年(1960)に博物館として開館する以前は、旧陸軍第四師団司令部、旧大阪市警視庁本部として使用されていました。第四師団は昭和6年(1931)から終戦までの使用。また、大阪市警視庁はのちに大阪府警察本部へとつながり、現在は大手前3丁目に移転しています。
 博物館として利用されたのは平成13年(2001)までで、大阪市の歴史に関する資料や史料を多数扱う本格的な博物館でした。同年に大手前4丁目に開館した大阪歴史博物館へ、業務や展示を引き継ぐ形で閉館。
 現在はミライザ大阪城として使用されており、展示やショッピングを楽しむことができます。戦争遺跡として大阪城公園内、天守閣前に残されており、重厚なロマネスク様式が特徴です。

残念石

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残念石とは大阪夏の陣で落城した大阪城を再建するために切り出されたけれどなにかしらの理由があり石垣になることができなかった残念な石のことです。
刻印石広場に展示されている石は石置き場や周辺に地域の川で出土したものや石垣工事の際に取り替えられたものですが残念石は未熟な輸送技術でのため大阪城にたどり着くことができませんでした。この残念石ですが大阪の街中でも見ることができます。グリコの看板で有名な戎橋から少し歩いたところにある道頓堀の碑、この石碑ももともとは大阪城の再建に使われる予定の石でしたが道頓堀の開削工事をした安井道頓の功績を称える碑として再利用されています。

お城のドン

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大阪城小天守台にある幕末の青銅製大砲です。文久3年(1863)に美作津山藩の鋳工百済清次郎が幕府の命により製作し、天保山砲台の備砲であったと伝えられています。明治になって大阪城へ運ばれ、陸軍により明治3年(1870)から同7年(1874)まで朝昼晩の時報として、それ以降は正午の時報として号砲を轟かせました。「お城のドン」として市民に親しまれていたが、大正13年(1924)に中止されました。
 江戸時代に製作された和製大砲として希少であり、遺存状態も良好です。
 また、砲架は昭和61年(1986)に修復されましたが、大砲と同時に作られた幕末の砲架と考えられています。修復に際しては、再利用できるものはそのまま使用され、当初の姿に復元されています。

法量 : 砲身全長 352cm  砲身重量 2.4t

大阪城天守閣

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●13の重要文化財
豊臣秀吉(とよとみひでよし)がつくった大坂城は、豊臣家の滅亡とともに失われ、現在残っているのは徳川時代になって再建されたものです。敷地内の建築物は櫓5つ、塀3つ、城門2つ、蔵2つ、井戸屋形1つの計13個が重要文化財に指定されています。

●長大な石垣を築いた武士たち
秀吉の大坂城より規模の点で劣る徳川家の大坂ですが、それでも全長12㎞という長大な石垣に圧倒されます。使われている石は50〜100万個と推定され、最も高い場所で水面から24.5m。そびえたつ石組みは圧巻です。この石垣は、当時の徳川家傘下の大名たちの手でつくられました。

●270年間存在しなかった天守閣
豊臣秀吉が天正11年(1583)に築城を開始しましたが、最初の大坂城。慶長20年(1615)の大坂夏の陣での落城後は徳川家の管轄となり、元和6年(1620)から再建が始められました。だが寛文5年(1665)の落雷以後約270年、天守閣は存在していなかったことを知る人は少ないです。その後、戊辰戦争による戦災や、陸軍用の敷地としての管理、空襲での被害などを経て、現在に至ります。

●市民の寄付が生み出した現在の姿
現在の天守閣がつくられたのは、昭和6年(1931)。当時大阪市長だった關一(せきはじめ)氏の提案で、復興費は全額市民からの寄付でした。建設された天守閣は、大阪の新たなシンボルとして注目を集めました。天守閣のモデルとされたのは、大坂夏の陣図屏風に描かれた姿だという。さらに建築監督には一介の町の建築家を大抜擢するなど、完全に市民の手に委ねられた復興計画でした。

●中は博物館として歴史を伝える
天守閣の中は、近代的な歴史博物館になっていて、秀吉や大阪城の歴史を学ぶ場所になっています。ジオラマやシアタールームなどの設備も整い、また最上階の展望台からは大阪のまち並みを一望できます。展示室では、約2カ月ごとに収蔵品を入れ替えています。

豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地

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大阪夏の陣で豊臣秀頼とその母、淀君は徳川軍に追い詰められ山里丸にあった櫓にて自刃したと言われています。それにちなみ大阪市の手により平成9年に記念碑が建てられました。この碑の近くには淀君と殉死した32名の忠霊塔があります。