中央区周遊ウォーキングコース「船場の歴史と近代建築をめぐる」

大阪市

中央区周遊ウォーキングコース「船場の歴史と近代建築をめぐる」のイメージ

船場は江戸から近代にかけて商業都市大阪の中心として栄えてきた地域。それぞれの時代の役割を持って誕生し、いまも現役で街の中に存在している建築物や歴史ある場所を鑑賞・散策するコースです。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「73977」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

綿業会館

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●堂々とした古典的な装飾
 中央公会堂から南に延びる、船場の背骨といわれた栴檀木筋(せんだんのきすじ)。今は三休橋筋と呼ばれるその通りに面して、ルネサンス調の建物、綿業会館がある。
 昭和3年(1928)に岡常夫(おかつねお・当時東洋紡績専務取締役)の遺言による寄付金100万円に関係業界からの50万円を加えたものを基金に、「日本の綿業の進歩発展」を目的とする綿業倶楽部を発足し、綿業会館建設を決定した。
 昭和6年(1931)12月、竣工。現在の金額で70億円。設計は渡辺節(わたなべせつ)、図面責任者は村野藤吾(むらのとうご)である。

●空間をとりこにした部屋、部屋、部屋
 鉄製のアートを凝らした正面玄関。門扉を開くと、そこに広がる吹き抜けの美。中央に岡常夫の銅像。見上げればシャンデリアが輝いている。シンメトリーに広がる階段を昇ると談話室、貴賓室、会議室へと続く。2層吹き抜けの談話室に一歩踏み入れると落ち着いた色合い。6×4mの豪華な大タイルタペストリーは京都・泉涌寺の窯場で焼いたもの。貴賓室は直線的な構成に曲線の獣足家具調度品。さらに、会議室の天井は長大なテーブルの雰囲気を和らげる楕円形になっている。
 渡辺節と村野藤吾とのコラボレーションによりできあがった最高芸術品である。

●細部の美学に守られて
 空気調節の音が静かで、邪魔にならないのは、欧米で使われ始めていた冷暖房の必要性を重んじ、建設当時から将来のためにと太いダクトにしていたからである。噴出し孔が目につかない、細やかな心遣いもある。
 関東大震災の教訓が生かされた二重ガラスの窓。フランスから取り寄せた鋼鉄ワイヤー入り耐火ガラスである。周辺の家々が戦火を受ける中、このガラスがすばらしい美術建築を守ってくれたのである。

津村別院(北御堂)

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●大坂誕生に立ち会った宗派
 浄土真宗本願寺派と大坂の関係は古い。本願寺第8世・蓮如(れんにょ)が明応5年(1496)に石山御坊を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされる。
 織田信長(おだのぶなが)との合戦のあと焼失し、天正19年(1591)には豊臣秀吉(とよとみひでよし)の寄進により京都に本山が移転する。
 津村別院は当初、「津村御坊」の名で慶長2年(1597)につくられた。江戸時代は、その南側に1年後に建てられた難波別院とあわせて「御堂さん」として親しまれた。

●「北の御堂さん」と呼ばれて
 大阪を南北につらぬく御堂筋の名前は、北御堂・南御堂と呼ばれたこの2つの別院に由来している。名付け親は元大阪市長・關一(せきはじめ)氏だ。この周辺の船場と呼ばれる場所は、江戸時代の商人たちに「御堂さんの屋根の見えるところで、鐘の音の聞こえるところで商売がしたい」とまで言わしめた、ステイタスのある立地。商業都市としての隆盛を誇った大坂の町が、そのまま現在の大阪へとつながっていることを考えれば、御堂さんの果たした役割が理解できる。
 毎年4月8日の花まつり、8月の盆踊り、12月大晦日の除夜会などの行事が行われている。

御霊神社

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●浪速の氏神
 創建は古く、800年代後半。大阪湾が深く入りこんで、葦が繁る円形の入り江に祀られた円(つぶら)神社に始まる。文禄3年(1594)、円江(つぶらえ・現在の西区靭)から現在地に鎮座し、江戸時代に御霊神社と改称した。船場言葉の御寮人「ごりょんさん」(商家の若奥様)と語呂が似ているところから、「御霊さん」や「御霊はん」と親しみをもって呼ばれてきた。船場という土地柄、商売の縁を結ぶ「縁結びの神様」としての信仰も篤い。

●人形浄瑠璃が華やかな時代
 18世紀後半になり、竹本・豊竹座が閉じてしまったあとは人形浄瑠璃の人気は衰えていたが、文化8年(1811)に植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)が難波神社境内の稲荷社に進出。のちに文楽座と名乗るようになり、明治17年(1884)に御霊神社に移った。また同年、別の一派である彦六座も難波神社に開場。2座が競ったことで、人形浄瑠璃は再び人気を博した。文楽座は640人を収容する日本で初めての文楽のための常設小屋であり、今の国立文楽劇場のもとになった。彦六座は明治26年(1893)に解散するが、御霊文楽座は唯一の人形浄瑠璃専門の劇場となったことから、人形浄瑠璃の代表的存在となる。大正15年(1926)に御霊文楽座は焼失、四ツ橋に移転することになる。御霊文楽は文楽200年の歴史の中でも最も華やかな時代を築き、大阪人の社交や商談の場として大いに栄えた。今も境内の片隅に「御霊文楽座跡」の石碑がある。

●ビルの谷間のオアシス
 文楽座の跡に儀式殿がつくられており、一般の人々が文楽・落語・日本舞踊などの発表の場として利用できるように提供し、大阪の伝統文化の向上につなげている。夏祭、初詣などはたいへんな賑わい。春は桜、秋はもみじといった四季折々の景色も楽しめる。

大阪ガスビルディング

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●御堂筋とともに誕生したガスビル
 巨大な客船を思わせる白亜のビルが御堂筋に面して建つ。設計者は安井武雄(やすいたけお)、昭和8年(1933)に竣工。地上8階建て、地下2階。外壁は1・2階を石材で黒くまとめ、上部は白色のタイル貼り。御堂筋の銀杏並木に映え、「都市建築物の極致」「街路景観にマッチしたオフィスビルの最高峰」と絶賛されている。昭和41年(1966)に安井の後継者・佐野正一(さのしょういち)の設計で北館が増築され、現在も大阪ガスの本社ビルとして使用されている。

●織田作之助と将棋とガスビル食堂
 昭和15年(1940)、『夫婦善哉』で文壇にデビューした織田作之助(おださくのすけ)は将棋好きで、ガスビルにあった学士会倶楽部の将棋会に加わるようになった。大阪文壇の第一人者・藤沢桓夫(ふじさわたけお)に連れられての参加だった。将棋会はハイカラな雰囲気のガスビル食堂で催され、モダンな酒場や本格西洋料理が当時の文化人にもてはやされた。2階のホールでは、名画の試写会やエンタツ・アチャコの漫才などが人気を呼び、文化の拠点となっていた。

●戦災を免れたのは
 昭和16年(1941)12月、太平洋戦争が起こり、屋上ネオン塔、エレベーター、エスカレーター、手摺り、窓枠などは金属供出された。昭和19年(1944)には、白亜の外壁を自社生産のコールタールで真っ黒に迷彩塗装を施し、空襲を避けた。昭和20年(1945)3月の大阪大空襲では、全館に備えていたシャッターを下ろし、7・8階の一部が焼けただけで難を免れた。

大阪倶楽部

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●オフィス街に堂々としたアーチ
 「南欧風ノ様式ニ東洋風ノ手法ヲ加味セルモノ」と、設計を担当した安井武雄(やすいたけお)が新館竣工記念冊子に記したとおり、南ヨーロッパ風のテラコッタ貼りレンガ様式に東洋風の趣向が凝らされた重厚な建物である。旧館が火災で焼失した2年後の大正13年(1924)、大阪倶楽部新館は竣工した。
 5つの白いアーチの間に、柱頭にインド風の飾りのあるトーテムポールが4本。玄関を入ると、獅子の口から落ちる水の流れが迎えてくれる。赤いカーペットの階段が緩やかなカーブを描き、階段の手すりにも細かい細工が施されている。天井も壮麗な装飾に満ち、それを支える梁にもさまざまな趣向がみられる。大阪倶楽部は、綿業会館・大阪ガスビルディングとともに、近代名建築の一つである。

●世界に目を向けた社交場
 明治44年(1911)、急激な人口増と繁栄の時代を迎えていた「大大阪」。西洋文化の影響もあってか、新しい文化を創ろうとした人々がいた。のちに通天閣建設に一役買った土居通夫(どいみちお)ら、大阪の名士たちが英国ジェントルメンズクラブを手本に、純粋な社交クラブを設立。ジャケットにネクタイ着用、政治・宗教・一切の商談を禁止するなど、設立の趣意書が倶楽部の心を今に伝えている。夜のパーティは燕尾服着用で行われたという。

旧住友 ビルディング

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●北浜レトロ建築の雄
 住友工作部の長谷部鋭吉(はせべえいきち)・竹腰健造(たけごしけんぞう)らの設計による。鉄骨鉄筋コンクリート造、6階建て。大正15年(1926)北側竣工、4年後に南側が完成した。
 ネオ・ルネサンス風の外観に淡いクリーム色の竜山石を貼り、玄関まわりはイタリア産のトラバーチン(大理石)で仕上げている。たくさんの小さな窓が並ぶ中に、巨大な2本の柱がそびえる玄関のデザインが印象的。シンプルに見える外壁だが、じっくり観察すると細かな装飾が施されている。
 本店新築にあたり「百年の計を為すこと」と定め、満を持して建設されたこの建物は、完成当時、「東洋のルネサンスの曙を告げる名作」と賞賛された。
 川向かいに、これも名建築として名高い日本銀行大阪支店が建っている。