船場スタンプラリー(音声ガイド付き)

大阪市

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「船場スタンプラリー」は、大阪市中央区の船場エリアを楽しく巡るイベントです。このスタンプラリーでは、船場エリアにある様々な名所を訪れ、スタンプを集めるまち歩きラリーです。
スタンプを集めるだけでなく、船場エリアをより深く知ることができるパンフレットも配布されます。参加者は、船場エリアの歴史や文化に触れながら、楽しくイベントを楽しむことができます。
「船場スタンプラリー」は、大阪市中央区の魅力を発見する絶好の機会です。家族や友人と一緒に参加し、思い出に残る大阪の旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「09429」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

少彦名神社

大阪府大阪市中央区

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●「神農さん」と呼ばれるわけは
大阪・船場の道修町(どしょうまち)にある少彦名神社は、「神農(しんのう)さん」とも呼ばれ、親しまれている。江戸時代、薬種商は、中国医薬の祖とされる神農氏の像や掛軸を床の間に祀っていた。当時、薬といえば長崎から輸入される唐薬種(漢薬)で、薬の真偽、品質の見極めが難しかったからである。その後、和薬種(国産薬)の取扱量が増加。安永9年(一七八〇)、京都の五條天神宮から、わが国の薬の神様、少彦名命(すくなひこなのみこと)の分霊をお迎えし、以前から祀っていた神農氏と合祀した。これが少彦名命と神農氏、2人の神様がいらっしゃる理由である。

●道修町 ― 商売人が文化人
道修町は薬種会社が多く、薬祖講という会をつくり、役員40名で神社の運営にあたってきた。江戸時代からこのあたり一帯は、町の人たちが子弟や丁稚のためにお金を出し合って塾や学校をつくり、商売と勉学を両立させていた。いろいろな知識を吸収しなければ、商売ができなかったのである。大阪薬科大学、大阪大学薬学部もルーツは道修町である。

●神農さんのシンボル「張子の虎」
神社の入り口には、注連柱(しめばしら)があり、その横には金色の虎の像がある。文政5年(一八二二)、日本でコレラが大流行。道修町薬種商では疫病除薬として虎の頭骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄円」という丸薬を無料で施した。そのとき張子の虎をつくり、丸薬とともに神前で祈願をし、病除祈願のお守りとしてあわせて施与された。以来、「張子の虎」は毎年、11月22・23日に行われる神農祭のシンボルとして名高くなり、大阪郷土玩具の一つに数えられている。戦前は、子どもたちが「おっさん、トラおくれんか」という声が祭りの風物詩となっていたが、戦後は参拝者が無病息災・家内安全を願って買い求め、祭典委員や巫女さんの手により授与されている。神農祭は、大阪の祭りが1月の「十日えびす」で始まり、神農祭で終わることから、「とめの祭り」とも呼ばれている。

難波橋

大阪府大阪市

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●勇壮なライオン像
 難波橋の通称は「ライオン橋」。勇壮なライオン彫刻が四隅の親柱の上に配されている。この像は大正4年(1915)に完成した市電事業の一環として難波橋が架けられた際につくられた。中之島の水上公園の一部として設計されたとあって、石橋風の外観、公園のアプローチとなる階段、獅子像、市章である「みをつくし」を組み込んだ欄干、しゃれた橋上灯など、ほかの橋とは一線を画した装飾的な景観をもっている。
 夭折した歌人坂田博義(さかたひろよし)は、この橋に哀愁を感じてこう詠んだ。
 橋づめに 石の獅子立つ 難波橋
    今日かなしまず 吾れわたりゆく

●江戸時代の納涼スポット
 江戸時代、難波橋は天神橋・天満橋とともに「浪花三大橋」と称され、大坂の八百八橋を代表する長大橋であった。当時、大川の川幅は現在よりも広く、難波橋は200メートルを超える木橋で、反りもあり、橋からの眺望は素晴らしかった。周囲の16橋や生駒山などの山々を見晴らすことができ、舟遊びや花見など絶好の行楽地として多くの人で賑わった。
 特に夏場は、氷水、甘酒、ぜんざい、しるこなど、橋のたもとには夕涼み客目当ての茶店が軒を並べ、納涼目的の人々であふれかえっていたという。花火見物にも絶好の場所で、大坂の文人たちの詠んだ俳句にも、何度も難波橋の名前が出てくるほどの人気スポットだった。適塾を開いた緒方洪庵(おがたこうあん)も、難波橋の下に船を並べて歌会を催したという記録が残っている。

●難波橋、激動の変遷
 一時期、難波橋が消失していたことがある。それは明治18年(1885)の大洪水の時である。明治初頭に鉄橋化した甲斐もなく、近辺の橋もすべて大破。数日間、船場から中之島へ渡る手段がなかった。その後、応急処置として難波橋の場所には船を並べて板を渡しただけの簡素な橋がつくられた。それが大正の市電事業により、現在の場所に整備されることになる。
 なにわ名橋50選の一つ。

船場センタービル

大阪府大阪市

船場センタービルのイメージ

☆スタンプは「船場センタービル6と7号館」接続部付近で獲得できます。

船場エリアの真ん中を東西に横断する船場センタービルは、昭和45年、大阪万博の開催の年にオープンした商業ビルです。
大阪メトロ「本町駅」と「堺筋本町駅」に直結する東西一キロにわたる長い建物です。
ビルの上を走る高架道路、ビルの下を走る地下鉄と一体構造になった全国でも類のない建築物です。
平成27年の外壁改修で「繊維の町船場」にちなんだ織物をモチーフにしたアルミパネルが取り付けられスタイリッシュな外観となりました。
現在では船ビルという愛称でも親しまれています。

The Kitahama(旧三越大阪店)

大阪府大阪市

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☆スタンプは「The Kitahamaタワー前 高麗橋通」沿いで獲得できます。

北浜駅に直結し堺筋でひときわ目を引く高層タワー『The Kitahama』
ここにはかつて三越大阪店がありました。
江戸時代の初期の1691年、高麗橋に江戸の呉服店、越後屋の出店として大阪に店が作られました。そのおよそ150年後、大塩平八郎の乱により店が全焼、そののちに移転などを経て明治の終わりに堺筋沿いに三越大阪店が誕生しました。
市電が走る堺筋は大阪のメインストリートとして大正から昭和にかけてたいそうにぎわっていたそうです。

旧小西家住宅史料館

大阪府大阪市

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● 重厚で豪壮、町屋の長大な表屋造り。
堺筋沿いに、漆黒の木造で国の重要文化財に指定された大阪の貴重な建築がある。明治33年(一九〇〇)着工。315坪に間口26mの表屋(店棟)、3階建ての母屋(主住棟)、衣裳蔵、二階蔵、三階蔵が現存する。
工期に3年を要し、栂(つげ)の良材をふんだんに用いた。数寄屋風の趣を有し、付書院の欄間(らんま)の格子など、部屋ごとに斬新な細部の意匠がみられる。

明治44年(一九一一)に堺筋拡張のため、西側間口4間が道路用地に供され、また関東大震災後に母屋3階が危険だとして取り壊された。明治の商家の暮らしを今にみる間口10間にずらりと格子戸を巡らした1階。2つの土間を通って台所へ。天井は湯気や煙を逃すよう工夫された高い吹き抜け設計。

50人以上の食事を賄った大きな「へっつい」(かまど)や井戸は今もある。また、蔵と店の間には運搬用にトロッコのレールが敷かれていた。

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の『春琴抄』に描かれる道修町の薬種商は、小西邸の屋敷、暮らしがモデルといわれていた。

進取の精神に富む初代と努力の2代目安政3年(一八五六)、薬種業を始めた小西儀助(こにしぎすけ)。大阪で初めて民間で電話を設置した。

2代目・儀助は明治17年(一八八四)にアサヒビールの前身となる「アサヒ印ビール」を製造する。4年後には「赤門印葡萄酒」を製造販売。この頃の奉公人の中に、のちのサントリー創始者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)がいた。

100年を超える歳月の間、従業員らが力を合わせて、たび重なる空襲と阪神・淡路大震災を乗り越え、現在は合成接着剤のメーカーとしてこの黒壁の館を守っている。

坐摩神社

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●坐摩(いかすり)のいわれ
 神社の歴史は古い。神功(じんぐう)皇后が朝鮮半島の新羅に遠征をして帰られた折、淀川南岸の渡辺の地(現・天満橋の西方)に、生井神(いくいのかみ)福井神(さくいのかみ)綱長井神(つながいのかみ)波比岐神(はひきのかみ)阿須波神(あすはのかみ)を祀られた。総称して坐摩神(いかすりのかみ)という。語源は、居住地を守るという意味の「居所知」(いかしり)が転じたもの。神功皇后が腰掛けられたという巨石が、今も祀られている。鷺丸の社紋も皇后との縁があり、由緒の深さを感じさせる。

難波神社

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●なぜ、難波?
難波にはないのに、難波神社? 難波神社に聞いてみた。「今の難波は、もともとは下難波(しもなんば)という地名だったのです。現在は単に難波と呼ばれていますね。難波神社があったのは、上難波(かみなんば)という場所。だから、神社名にその名残があるのです」。難波神社は、仁徳(にんとく)天皇を祭神として建てられたと伝えられ、ほかにも源頼朝(みなもとのよりとも)が土地を寄進した記録があったりと、歴史上の人物が随所に登場する由緒ある神社である。

御霊神社

大阪府大阪市

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●浪速の氏神
 創建は古く、800年代後半。大阪湾が深く入りこんで、葦が繁る円形の入り江に祀られた円(つぶら)神社に始まる。文禄3年(1594)、円江(つぶらえ・現在の西区靭)から現在地に鎮座し、江戸時代に御霊神社と改称した。船場言葉の御寮人「ごりょんさん」(商家の若奥様)と語呂が似ているところから、「御霊さん」や「御霊はん」と親しみをもって呼ばれてきた。船場という土地柄、商売の縁を結ぶ「縁結びの神様」としての信仰も篤い。

津村別院(北御堂)

大阪府大阪市

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●「北の御堂さん」と呼ばれて
 大阪を南北につらぬく御堂筋の名前は、北御堂・南御堂と呼ばれたこの2つの別院に由来している。名付け親は元大阪市長・關一(せきはじめ)氏だ。
 この周辺の船場と呼ばれる場所は、江戸時代の商人たちに「御堂さんの屋根の見えるところで、鐘の音の聞こえるところで商売がしたい」とまで言わしめた、ステイタスのある立地。
 商業都市としての隆盛を誇った大坂の町が、そのまま現在の大阪へとつながっていることを考えれば、御堂さんの果たした役割が理解できる。
 毎年4月8日の花まつり、8月の盆踊り、12月大晦日の除夜会などの行事が行われている。

難波別院(南御堂)

大阪府大阪市

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●正式名称は真宗大谷派難波別院
難波別院は、浄土真宗の真宗大谷派と呼ばれる宗派である。
文禄5年(1596)、真宗大谷派の開祖である第12世・教如(きょうにょ)が、現在の北区の天満橋と天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まる。しかし、天正11年(1583)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が石山本願寺跡に大坂城を築城。城下町を整備していくにあたり、石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により慶長3年(1598)、現在地に移転した。
総本山としての機能は、慶長7年(1602)に徳川家康の寄進によって京都に東本願寺が建立されるまでで、それ以降難波別院は、大坂第一の拠点寺院として地域に親しまれた。
北御堂と呼ばれた津村別院とともに南御堂と称され、御堂筋の語源ともなり、今日に至る。

適塾(重要文化財)

大阪府大阪市

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洪庵(1810~1863)は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学んだ。天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に塾を開いた。1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していた。そのなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出し、また洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍した。