中央区にぎわいスクエア2021デジタルスタンプラリー

大阪市

※本ツアーは終了しました。

中央区にぎわいスクエア2021デジタルスタンプラリーのイメージ

2021年11月13日14日に開催する「中央区にぎわいスクエア2021」での会場であるとんぼりリバーウォークを回遊しながら楽しむ二日間限定のデジタルスタンプラリーです。
道頓堀で歴史のある橋を巡りながら中央区観光ブースで抽選会に参加して景品をゲットしよう!

【中央区にぎわいスクエア2021】
https://nigiwai-square.localinfo.jp/

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「83336」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

戎橋

大阪府大阪市

戎橋のイメージ

戎橋は、道頓堀川の開削とほぼ同時に架けられたと考えられる。
橋名の由来は今宮戎との関連が考えられるが定かではない。

 また橋の南側に操り芝居の小屋があったことから操橋(あやつりばし)とよばれたこともあった。

 さらに明治維新の直前、慶応3年(1867)に幕府が“戎”という外国人をさげすむ言葉の使用を禁止、一時的に永成橋と改名されたこともある。

 戎橋は今宮戎への参道にあたり、また千日墓地への墓参や橋の南側にできた芝居小屋などへ行く多くの人々に利用されてきた。橋の維持管理は周辺の町が担当。記録によると元禄7年(1694)の修理工事から明治11年(1878)に鉄橋に架け替えられるまでに13回の修理および架替工事が行われた。

 架替前の戎橋は大正14年(1925)に架けられたもので、70余年経過し老朽化が進行しているため、道頓堀川水辺整備事業に併せて架替を行った。戎橋は心斎橋筋の利用者のみならず観光客に親しまれてきたことから、国内外を対象にデザインコンペを実施し広くアイデアを募り、その最優秀作品に基づき、架替事業をすすめ、平成19年11月に橋梁部が完成した。

 現在の戎橋は、円形を基本とした橋上広場で劇場性を表現しつつ、広場に沿ってスロープを取り入れることで、水辺へ降りながら移りゆく景色を眺める楽しさなどを考慮し、このようなデザインとなった。

 今後も、多くの利用者に親しまれる戎橋を整備することによって、水辺整備とあいまって道頓堀川の賑わいのある景観の創成、さらには御堂筋の新たな魅力の向上を図ります。

道頓堀橋

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道頓堀橋のイメージ

現在の道頓堀橋は大阪市第一次都市計画事業時、御堂筋の整備にあわせて新たに架けられた。橋長は38.2メートルで三径間連続鋼板桁が用いられ、基礎は地下鉄と一体となっている。橋の幅員は43.6メートルであり、単独の橋としては現在大阪で最も広い橋である。

新戎橋

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明治26年3月に、久左衛門町と九朗右衛門町を結ぶ本橋が架けられた。

 「大阪府誌」では新蛭子橋と書かれ、橋長が130尺(39.4m)、幅員20尺(6.1m)の木橋とされている。その後、大正9年にほぼ同規模の木橋に架け替えられ、昭和17年に大規模補修が行われたが、戦災で焼け落ちた。

 戦後の昭和26年に地元の協力によって、木造鉄骨の橋が架橋され、ヒノキ造りの高欄は朱色の美しいものであったといわれている。現在の橋は、橋長39.7m、幅員7.0mの3径間単純合成鈑桁橋で、昭和38年に架けられた。

 平成4年に歩道設置ならびに橋面整備が行われ、平成19年に道頓堀川水辺整備事業に併せ改修工事(歩道拡幅、橋面整備、耐震対策、修景整備)を行い、平成20年3月に完成した。先代の橋の高欄が朱色であったことから、フレームに朱色を取り入れ、歩道には白御影石、地覆には黒系の塗装を施し、高欄フレームの朱色と調和を図っている。さらに、高欄にはガラスではさみこんだ和紙のパネルをはめこみ、夜間には高欄外側からの照明により和紙を浮かび上がらせている。

太左衛門橋

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 橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。

 太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。

 以降道頓堀の芝居町を中心にして周辺の町々の負担で維持されてきた。織田作之助の作品に『女の橋』『船場の娘』『大阪の女』という三部作があるが、ストーリーの節目に太左衛門橋が、一場を構成する重要な役割を与えられている。

 太左衛門橋は昭和になっても狭い木橋のままであったが、大阪大空襲の際に焼失し、地元の人々によって復旧された。

 昭和33年に架け替えられた橋は、規模は江戸時代のものとほとんどかわらないが、3径間連続の合成桁という最新の技術が試された実験的な橋である。

 近年は、道頓堀川の水辺整備に合わせて、本橋の西側と東側に側道橋を整備したが、整備にあたっては、有識者から成る道頓堀川遊歩道・橋梁デザイン検討委員会において、橋のデザイン検討を行った。今回改修した橋は、その名前が、かつてこの地で歌舞伎の興行を行っていた興行師に由来することや、多くの芝居小屋があったことから、木を基調とする歴史的な意匠を取り入れた橋となった。

大黒橋

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 大黒橋は木津の大黒神社への参道に当たっていた。江戸時代初期の地図にはこの橋は「なんば橋」「下橋」と記載されているが、元禄16年(1703)の『公私要覧』には「大黒橋」とあり、これ以降はこの名前が定着したようである。

 江戸時代の大黒橋は木橋で、橋長42.7m、幅員2.4mと記録されている。また、嘉永7年(1854)、大阪は津波に襲われたが、この際、木津川から道頓堀川へ津波がさかのぼり、西道頓堀川の橋は全て壊れた。さらに遡上してきた船や橋が大黒橋に引っ掛かり岸へ乗り上げたため、周辺の家屋が壊され、甚大な被害を被ったとされている。

 昭和5年に大黒橋と同時に上流側には道頓堀川の浄化用の可動堰が設けられた。その上部は歩行者道路となり、昭和63年にはベンチ、植樹枡が設置されるなどの整備が行われた。

 完成から80年以上が経過し、老朽化が進行していたため、道頓堀川水辺整備事業(遊歩道整備)にあわせて、平成24年に架替えられた。なお、デザインは旧橋の重厚感のあるアーチ橋を踏襲している。