江戸三十六見附ウォーク第2回 四谷門から浜大手門まで歩こう

山梨県

江戸三十六見附ウォーク第2回 四谷門から浜大手門まで歩こうのイメージ

「江戸三十六見附ウォーク」
江戸城を中心に巨大な城郭都市をなしていた江戸。江戸城の安全を見張るために街道の分岐点など交通の要所に36ヶ所の見附(見張り場所)が「の」の字を描き設置され、江戸城を護っていました。「江戸三十六見附ウォーク」は浅草橋駅から江戸城跡まで4回に分けて今も残る御門や見附跡を巡ります。

第2回のこのコースは、四谷門から浜大手門の歩行距離約8kmのコースです。途中、周辺の史跡や名所にも立ち寄りながら楽しく巡っていただけます。

本ツアーは現在、無料でご利用いただけます。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「53989」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

JR・東京メトロ四ツ谷駅

東京都千代田区

JR・東京メトロ四ツ谷駅のイメージ

東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅です。JR東日本の大部分および東京メトロ丸ノ内線の一部は、新宿区と千代田区の境目にまたがっているため、部分的には東京都千代田区麹町6丁目にも位置します。四ツ谷駅周辺は、「赤坂御用地」の近くにある都心のオフィス街ですが、江戸時代から宿場町として栄えてきた町でもあります。江戸時代には四谷門があり、現在でもその名残である石垣が四ツ谷駅麹町口から見られます。

四谷門

東京都千代田区

四谷門のイメージ

JR四谷駅麹町口の駅前ターミナル一帯から、主婦会館前あたりが四谷門(四谷見附)の枡形でした。現在でも枡形の一部だった石垣のほか、北側では今では遊歩道となっている土塁跡が見られます。麹町出口から門は寛永13年(1636)毛利元就の玄孫で、初代長州藩主の毛利秀就が築きました。この周辺は、江戸城半蔵門から武蔵国国府(府中)をへて甲州(今の山梨県)に至る重要なルートの途上です。また甲州街道を西から来る敵を防ぐ、江戸城の軍事拠点としての一面を持っていたといわれています。
「四谷」という地名の由来には二つの説があり、一つは昔四ヶ所の谷があったことによるという説と、もう一つは梅屋、木屋、茶屋、布屋という四軒の茶屋があったためという説があります。

真田壕

東京都千代田区

真田壕のイメージ

真田壕・真田堀の名は、真田藩の真田信之が普請を請け負ったことから付けられたものです。四谷壕ともいいます。南半分が上智大学のグラウンド、北半分がJRおよび東京メトロの四ツ谷駅になっています。真田濠は寛永13年(1636)に完成した江戸城外濠延長14kmの中で最も高い地形に位置しました。また、江戸時代の真田濠は蓮華の花が咲き誇る景勝地でした。上智大学グラウンドとして利用されている土地は都有地で、敗戦直後、戦災瓦礫の処理に困った都が、濠に瓦礫を埋める作業を請け負って貰う代わりに上智大に永久貸与しました。故に現在では堀の原型はほぼ残っていません。

喰違門

東京都千代田区

喰違門のイメージ

喰違門の位置は迎賓館東門の先、お堀を分断する「喰違橋」という土橋から、ニューオータニに続く道路周辺に当たります。「喰違」は元来地名ではありません。「喰違」とは現代用語に置き換えるなら、「クランク」になります。つまり進入路に石組のない土塁を築いて直進を阻むようにし、意図的に一旦右かに左かに曲がり、再び右か左かに曲がらなければ進めない施設でした。これは、戦国時代に枡形門を築かない場合に採用された古い関門です。現在は、車を通すためにクランク形からS字の道路に変わっていますが、当時の面影は残っています。

紀伊徳川家跡

東京都港区

紀伊徳川家跡のイメージ

外堀にかかる弁慶橋のの北詰、東京ガーデンテラス紀尾井町前に「紀州和歌山藩徳川家屋敷跡」の標柱と高札が立っています。東京ガーデンテラス紀尾井町を含む、この一帯は御三家の一つである紀伊徳川家の上屋敷がありました。明暦3年(1657年)振袖火事の後に拝領し、文政6年(1823年)に焼失するまで紀州藩上屋敷でしたが、その後再建されませんでした。ちなみに紀尾井町通りの左側一帯は紀伊徳川家中屋敷がありました。

弁慶橋

東京都港区

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現在東京都千代田区紀尾井町と港区元赤坂一丁目にある弁慶堀の上に架かるコンクリート橋です。実は弁慶橋は江戸時代にはありませんでした。当初は弁慶橋は神田松枝町と岩本町の間を流れる藍染川に架けられていました。1885年(明治18年)に藍染川が下水道工事で埋められると弁慶橋も不要となり、撤去されたものですが、このまま名橋が失われるのは惜しいということで、現在の場所に元の弁慶橋の廃材を利用して架橋されたものです。さらに1985年に改築されコンクリート材を使用したものが、現在の弁慶橋です。名前の由来は、江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられます。

赤坂門

東京都港区

赤坂門のイメージ

赤坂門は、江戸城から相模大山方面に通ずる大山街道に建てられた門です。現在では東京メトロ赤坂見附駅付近一帯を指す地名でもあります。高速道路が地中に潜ろうとするトンネル入り口付近で外堀が途切れ、その上に石垣が残っています。この石垣が赤坂門の一部であり、当時の枡形は現在の青山通りを遮断するような形でありました。赤坂門は枡形門の形式で、これは田安門、清水門などと同じになります。筑前藩国福岡藩主の黒田忠之によって、1636年(寛永13年)に築かれました。また、赤坂門は門前の富士見坂から西へ延びる大山道(青山通り・国道246号)の起点でもありました。

外堀脇旧道

東京都港区

外堀脇旧道のイメージ

山王下交差点で外堀通りを渡ると、赤坂の繁華街に入ります。さらに堀通りから2本目の道(赤坂郵便局の先)を左に曲がると外堀脇の旧道にあたります。この道が昔の溜池沿いの道でもありました。この繁華街一帯はかつては料亭街でもありました。現在では料亭はほとんどコンクリートのビルの中にあります。

霊南坂前

東京都港区

霊南坂前のイメージ

米国大使館正門辺りで変則的な十字路になり、正門の先を右へ行った道から、港区虎ノ門2丁目(ホテルオークラ、東側)に続く坂道が霊南坂です。慶長15年(1610)、 この土地に東禅寺を開いた嶺南和尚の庵があったのが坂の名前の由来となっています。「嶺南和尚」の嶺がいつしか霊になり「霊南坂」となりました。
またこの坂にある霊南坂教会 (1879年小崎弘道創立) は、日本のキリスト教会のなかでも古く、由緒あるプロテスタント教会です。          

榎坂前

東京都港区

榎坂前のイメージ

坂の由来は、江戸試合前の古街道を示す榎があったと推定されていますが、詳細については現在でも不明となっています。往時は勾配のある坂であったと推測されますが、現在の榎坂は緩やかで坂という雰囲気はありません。右手一帯が米国大使館になっていますが、かつてはこの敷地は常陸国牛久藩山口家の上屋敷でした。またこの米国大使館前から西に榎坂、東に潮見坂、南に霊南坂と3本に道が分かれています。

石垣跡

東京都千代田区

石垣跡のイメージ

虎の門三井ビル入口向かいにある地面から頭を出した石垣です。この付近の石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台の一部になります。これが遺構としてある所が江戸城の大きさそのものに当たります。江戸城外張りの隅櫓は、このほかに筋違橋門と浅草橋門だけにあり、唯一この石垣だけが現存しています。

虎ノ門

東京都千代田区

虎ノ門のイメージ

外桜田門から芝西久保方面に出る門です。枡形の完成は諸門と同じ寛永13年(1636)でしたが、虎ノ門そのものは慶長11年(1606)の江戸城普請(ふしん)の際にできており、肥前佐賀藩主の鍋島勝茂によって築かれました。この虎ノ門には、内堀の外桜田門から来る御成道が通じており、芝の増上寺に向かっていました。また、明暦3年(1657)に焼失し、万治2年(1659)に再建されましたが、享保16年(1731)に焼失した後は、櫓門は再建されませんでした。
虎ノ門の名前の由来は複数あり、西を白虎と称し、虎ノ門の位置は白虎の方向あたるからとも、太田道灌が出陣する時に自分を虎に見立てて「千里行くとも千里帰る」と祝って名づけたとも言われています。

幸橋門位置

東京都港区

幸橋門位置のイメージ

幸橋(さいわいばし)門は肥後国熊本藩主の細川忠利が築きました。また、この門は増上寺参詣の道筋にあたるため御成橋門とも呼ばれました。位置はJR新橋駅近くにある第一ホテル前付近にありました。現在は「幸橋」という地名は残っていません。しかしこの幸橋門のあった場所や帝国ホテルの立つエリアは、現在「内幸町」と呼ばれる町名となっており、これは幸橋門の内側に位置していたことが由来となっています。

山下門位置

東京都千代田区

山下門位置のイメージ

山下門は、現在の銀座の中心地に近い場所にありました。コリドー街沿いに有楽町方向に向かって進み、T字路を左に曲がったJRの高架下が山下門跡にあたります。山下門の枡形は江戸城の城門のなかでは最も小さいものでした。昔は山王社(日枝神社)の下にあったものを、この地に移した為、山下門という名が付いたという説があります。山下門は明治6年(1873)に撤去され、現在はかつての面影はありません。

数寄屋橋門

東京都千代田区

数寄屋橋門のイメージ

数寄屋橋門は慶長7年(1602)に築き、寛永6年(1629)陸奥國仙台藩主の伊達正宗が石垣と枡形門を完成させました。数寄屋橋門は、有楽町マリオン付近にあり首都高速脇に数寄屋橋公園があります。数寄屋橋は、高速道路建設に伴い昭和33年に取り壊されてしまいましたが、数寄屋橋公園にある数寄屋橋跡の石碑はその際に出た石材を利用して作られたものです。数寄屋橋門は初め芝口門と呼ばれていましたが、宝永7年(1710)、芝口門を新たに築くにあたり数寄屋橋門と改めたと言われています。
また江戸時代、近隣には三奉行の一つである町奉行の役宅が置かれていました。町奉行は「北町奉行」と「南町奉行」があり、ここには南町奉行がありました。現在でもJR有楽町駅前のイトシア近辺に、南町奉行所跡の石組などが見れます。

芝口門

東京都中央区

芝口門のイメージ

芝口御門は、現在の新橋に建設された外郭門の一つです。宝永7年(1710)9月に建設され、同年に高輪大木戸を設け東海道の表門としました。しかし享保9年(1724)に火災で焼失し、以後廃止されました。三十六見附の他の門は防衛目的でありましたが、しかしこの芝口御門は、海外からの来客への見栄 または ”こけおどし”的な要素のほうが強かったようです。
また「新橋」という名称は、芝口御門が造られた時に「芝口橋」と名を変えましたが、しかし芝口御門が焼失し、再建もされずに石垣も撤去されたため、「新橋」の旧称に戻ったことが由来です。

浜大手門

東京都港区

浜大手門のイメージ

現在の浜離宮(浜離宮恩賜庭園)は、甲府藩主徳川綱重の下屋敷(海手屋敷)として海辺を埋め立てて造られ、その後6代将軍・家宣の時に将軍家別邸の「浜御殿」となりました。明治維新後は皇室の離宮となったが、戦後東京都に下賜されて公開されています。浜離宮の入口に掛かる、2連アーチの大手門橋を渡った浜御殿の正面入り口として「浜大手門」はありました。江戸城の虎ノ門と同等の格として、所定の陣容と装備が定められていた門です。江戸城を取り巻く他の門と同様に枡形を形成していたが、関東大震災で焼失し、現在は渡櫓門の立派な石垣だけが残されています。現在の大手門から浜離宮の管理事務所のあたりには、枡形の大手門廓があり、櫓台が構成されていました。

新橋駅

東京都港区

新橋駅のイメージ

1872年10月14日、日本初の鉄道路線である新橋~横浜(現:桜木町駅)間が開業した際に東京側のターミナル駅として建設された駅です。この初代新橋駅は現在の新橋駅とは離れた汐留地区にありました。現在の新橋駅の西側の烏森口にはC11形蒸気機関車が静態保存されており、SL広場として親しまれています。ビジネス利用が特に多く、1日辺り85万人以上、年間3億を超える利用客数があります。2011年にはその利用者数は難波駅を超えました。また、よくテレビのニュースなどで「サラリーマンの街」としてインタビューされている場所がこの新橋駅です。